途切れた線
よはく
第 1 話
放課後の渡り廊下に、踏みしめた雪の匂いがまだ残っていた。ストーブの熱が届かない場所で息を吐くと、白い膜がゆっくり形を変えて消えていく。その向こうに、古い掲示板が見えた。剥がれかけの画鋲が一つ、光に反射して揺れていた。 あの画鋲、去年の春にも見た気がする。誰かがつけ直したのか、それともずっと残っていたのか。そんなことを考えながら手袋を外すと、指先に冷たさが染みてきた。 「まだ、ここにあるんだな」 背後で声がして振り返ると、同じクラスの千景が立っていた。黒髪の先に小さな雪がひとつだけ乗っている。彼女は掲示板を見ながら、肩をすくめた。 「これ、去年の歓迎ポスターの画鋲だよ。外そうか迷ってたの」 千景はそう言いながら、指先を少し伸ばしてから、途中で止めた。触れる寸前のまま、何かを測るように細い息を吸った。 「…なんか、取れなくてさ」 理由は言わなかった。でも、その一瞬のためらいが、まるでそこに別の時間が埋まっているみたいに見えた。 僕は何も言えず、掲示板に影を落とす夕陽だけを追った。雪明かりと混じりあって、廊下の色がゆっくり変わっていく。 ふと、千景がこちらを見た。 「ねえ、今日…帰り、ちょっと寄り道しない?」 その声の奥で、画鋲がわずかに揺れた気がした。理由の見えないその誘いが、胸のどこかに沈んでいく。 外に出れば、雪はまた積もり始めていた。どこに向かうのか、まだ決められないまま、僕は手袋を片方だけ握りしめていた。
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第 2 話
昇降口を出ると、雪は粒を細かくしていた。千景はマフラーを指で整えながら、「駅までじゃないよ」と笑った。声音は軽いのに、どこか探るような揺れがあった。 「どこ行くんだよ」 そう聞くと、彼女は前を向いたまま片眉だけ動かした。 「たいした場所じゃないよ。…ちょっと、見せたいだけ」 足跡が二つ並ぶ。踏むたびに、湿った音が靴底へ染みてきた。斜め向かいの民家から、味噌を温める匂いが流れてくる。空腹じゃないのに、喉の奥がうずく。 角を曲がったところで、小さな公園が見えた。滑り台の手すりが凍って光っている。千景はベンチの前で立ち止まり、白い息を一度だけふっと途切れさせた。 「去年の春、ここでさ…ポスター作ったんだ。歓迎会の」 指先がかすかに震え、彼女の視線が地面に落ちる。 「うまく描けなくて、ちょっと泣いた。…誰にも言ってないけど」 言葉のあとに沈黙が落ちた。公園の時計が小さく時を刻む音だけが続く。 僕は返事を探したが、雪が肩に触れるたび、思考が別の方向へ滑っていく。どう言えばいいのか分からない。ただ、千景がその時の自分を確かめるみたいに立っているのだけ分かった。 「ほら、別に変な話じゃないよ」 そう言いながら、千景は顔を上げた。その目に映る雪の光が、さっきより少しだけ揺れていた。 その揺れの理由を聞く前に、雪がまた強くなり始めた。どこまで歩くのか、まだ決めきれないまま、僕は手袋をポケットに押し込み直した。
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第 3 話
公園の時計が一つ進んだころ、千景は滑り台の下に視線を移した。そこに、色の抜けた紙片が雪に貼りついていた。 「…あれ、たぶん私のだよ」 彼女は近づき、膝に手を置いて覗き込んだ。縁だけが淡い青で、文字は流れて消えていた。 「まだ残ってたんだな」 思わず漏れた僕の声に、千景は小さく首を振った。 「残ってるっていうか…ほら、こういうのって、見るとさ…忘れたと思ってたことまで戻ってくるじゃん」 指先が紙を触れずに宙で揺れた。 同じ景色を見ているのに、僕が感じたのは別のことだった。 紙片はほとんど読めず、ただのゴミに近い。けれど千景には、何か続きがあるように見えている。その違いが、足元の冷たさより妙に際立ってくる。 「…変かな」 彼女は紙から目を離し、少しだけ笑った。 「いや、変じゃないよ」 そう言いながら、自分の声がどこか硬いのが分かった。 風が吹いて、紙片が公園の端に転がった。千景は追わなかった。代わりに、マフラーの端を指でつまんだまま、ゆっくり立ち上がった。 「もうひとつ、寄りたい場所があるんだ」 顔を上げた彼女の目に、さっきとは違う影が浮かんでいた。 その影がどんな形なのか分からないまま、僕は雪の音に合わせて歩きだした。
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第 4 話
住宅街を抜けると、雪の匂いが少し薄れた。代わりに、乾いた木の香りが混じる。千景は歩幅を少しだけ広げ、前より早く進んでいく。 「ほら、もうすぐ」 声は明るいのに、指先だけ慎重に揺れていた。 辿り着いたのは、小さな神社だった。鳥居の赤は雪に沈んで、夕方の色とまざり合っている。僕が足を止めると、千景は境内の脇にある古い倉庫を指した。 「中…ちょっと変なんだよ」 言い方は軽いのに、視線は戸に張りついている。 倉庫の戸は、誰も触れてないはずなのに、わずかに雪が溶けていた。風のせいにするには、溶け方が線みたいに細い。近づくと、どこか金属が擦れるような、聞き慣れない音がした。 「ね、聞こえる?」 千景は息をひそめる。 耳を澄ますと、かすかな振動が足に届いた。地面の下から何かが動いたみたいな、微妙な揺れだ。怖いというより、理由の分からないざわつきが背中を押した。 「…開けてみたいんだ」 千景は戸に触れず、手前で止めたまま言った。 その距離の取り方に、ためらいと期待が同居しているのが分かった。僕は返事を探しながら、溶けた雪の線をもう一度見た。 まるで誰かが、さっきここを通ったみたいだった。
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第 5 話
戸に指を近づけた瞬間、空気がひと鳴りした。冬の匂いとは別の、乾いた土のような気配が混じる。戸は動いていないのに、内側だけ時間がずれたみたいに見えた。 「今…揺れたよね?」 千景が袖を握り、目だけで戸を追う。 耳を澄ますと、倉庫の奥で金属が軽く跳ねる。風では届かない深さだ。僕が戸の縁に触れると、冷たさが一瞬だけ消え、その代わりに脈のような鼓動が皮膚に移ってきた。 思わず手を引くと、戸のすき間から細い光が漏れた。黄昏の色とは違う、薄い青の線だ。雪に落ちた光が、じわっと丸く広がる。 「…ねえ、これ、前はなかったよ」 千景の声が低く揺れた。怖がっているというより、確かめたくて仕方ない時の彼女の声だ。 僕は答えを出せずに立ち尽くす。光はすぐに消えたが、倉庫の向こうに誰かが動いた気配だけが残った。 千景がそっと息を吸う。 「…もう少しだけ、見てみたい」 その言葉の奥に、小さな震えが潜んでいた。彼女が何を感じたのかは分からない。ただ、雪の匂いが急に薄まり、境内の空気が変わっていくのだけははっきり伝わった。
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第 6 話
戸を押すと、雪の重さとは違う、乾いた抵抗が腕に伝わった。かすれた音をひとつ残して開いた隙間から、冷たさのない空気が流れ出す。土と紙が古びたまま沈んだ匂いがして、外より薄暗いのに、視界の奥だけがぼんやり明るかった。 「…入るよ」 千景が言い、僕の袖を一度だけ引いた。その力は弱いのに、迷いを断ち切る合図みたいだった。 中に足を踏み入れると、床板が乾いた音を返す。奥の棚に、古い画材が積まれていた。絵筆の毛先だけが、時間を閉じ込めたように固まっている。ほこりの層を透かして、薄い青がちらっと見えた。 「これ…」 千景が指したのは、小さな紙箱だった。角が少し潰れている。その表面に、消えかけの色鉛筆の線が残っていた。 「歓迎ポスター、最初の下書き…たぶん、ここで描いたんだ」 触れる寸前で、千景の指が止まる。呼吸が浅くなるのがわかった。 僕は箱に目を落とす。光の正体は、その箱の隙間から漏れていた。淡い青は、蛍光ではなく、紙に染みた色が外に滲んで見えるだけだった。 「なんだ…光ってたわけじゃないんだな」 そう言うと、千景は小さく肩を揺らした。 「でもね…ここにあったって知らなかった。忘れたって思ってたのに」 箱の横に、誰かの足跡のような凹みが残っている。最近のものかは分からない。ただ、千景がそれをじっと見て、唇を閉じた。 倉庫の外で、風が雪を払う音がした。薄暗さの中、千景の視線がもうひとつ先へ向かう。 「ねえ…もう少し奥、行ってみてもいい?」 その声には、ためらいと、消えかけた記憶を掘り返すような微かな熱が混じっていた。
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第 7 話
棚の奥へ進むと、空気が少しだけ変わった。外より寒くないのに、腕の産毛が逆立つ。千景は足音を立てないように歩き、指先をそっと前に伸ばした。 「こんなに広かったっけ…?」 独り言みたいな声が、倉庫の木壁に吸い込まれる。 薄暗がりの先に、小さな机があった。天板に、鉛筆の跡が線のまま固まっている。千景は机の端に触れかけて、ふっと息を止めた。 「ここ…よく座ってた気がする」 記憶を探るみたいに、目が揺れる。 僕は机の横にある丸椅子に気づいた。脚がぐらついていて、座れば軋みそうだ。それでも千景は、その椅子を見て少しだけ眉を寄せた。 「これ…私、前に落ちかけたことある」 声は軽くしてるのに、指先だけ慎重だ。 「危ないやつじゃん」 そう言うと、千景は肩をすくめた。 「でもさ、当時は気づかなくて…座ったまま絵、描いてたんだよ」 その姿を想像したら、胸の奥で何かがゆっくり動いた。言葉にはならないまま、千景の横に立つ距離がほんの少し縮まった。 「ねえ」 千景がこちらを見る。 「この机、もう少し見てもいい?」 頷くと、彼女は椅子に手を添えて、ためらいながら腰を下ろした。軋む音が静かな倉庫に淡く広がる。 千景は机の表面を指でなぞり、小さく息を吸った。 「…なんか、続きがある気がする」 何の続きかは言わなかった。けれど、その言葉に引かれるように、僕も机の影を覗き込んだ。倉庫の奥に、もうひとつ形になりきらない気配が沈んでいた。
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第 8 話
机の影を探ると、薄い紙が一枚、木目のすき間に挟まっていた。角が湿気でわずかに丸まっている。引き抜くと、鉛筆の線が薄く残った人物の下書きが現れた。誰かが笑っているようで、けれど輪郭が途中で途切れている。 「…これ、私が描いたのかな」 千景は紙を受け取り、目を細めた。呼吸がわずかに乱れる。 「でも…覚えてないんだよ。去年のことなのに」 彼女は絵の中央を指でたどる。その動きが途中で止まり、指先に力がこもった。 「ここ、誰がいたんだっけ…」 呟きというより、自分の中の何かに尋ねているようだった。 僕は返事を探したが、倉庫の匂いが強くなり、喉の奥がひりついた。千景の視線は紙に吸い寄せられたまま離れない。 「忘れたはずないのにさ」 そう言う声が、少しだけ乾いていた。 その瞬間、棚の下から冷たい風が足元を掠めた。窓は閉じているのに、紙が震えるほどの細い風だった。千景は顔を上げ、倉庫の奥を見つめた。 「…ねえ、今の、感じた?」 紙を持つ指が揺れた。その揺れの奥に、まだ触れていないもう一つの記憶が潜んでいる気がして、僕は奥の暗がりに目を向けた。
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第 9 話
千景は紙を胸の前で押さえたまま、暗がりに歩を寄せた。棚の影に沈んだ空気が、ひとつ吸い込まれるように揺れる。僕もあとを追うと、床板が低く鳴った。 「ほら、このへん」 千景は足を止め、指で狭い隙間を示した。そこには、小さな布切れが落ちていた。色は抜けて灰に近い。けれど、端のほうにだけ淡い青が残っていた。 「これ…ポスターの布、切ったときの余りだ」 声は落ち着いてるのに、指先の温度が少しずつ上がってくるのがわかった。 布を拾い上げると、ほこりが舞い、千景が鼻の下をかすかに押さえた。 「懐かしいって感じでもないのに…変だよね」 苦笑に近い息がこぼれる。 「変じゃないよ」 言ってから、自分でもそれが少し急いた声だと気づいた。千景がこちらを見る。視線がぶつかり、僕はわずかに息を止めた。 倉庫の温度は低いのに、距離だけが妙に近い。千景の呼吸が、紙の揺れを通して伝わってくる。 「ねえ」 千景が布切れを握り、少しだけ顔を上げた。 「私さ、こういうの…ひとりで見るの、ちょっと苦手だったんだと思う」 言葉の意味は曖昧なのに、布を持つ手がほんの少し僕のほうへ傾く。 触れるわけじゃない。ただ、それを任せるみたいな向き方だった。 受け取ると、指先が一瞬だけ触れた。冷たくなく、温かくもない、中途の体温が残る。千景は目を逸らし、髪を耳の後ろに払った。 「…外、もう暗いかな」 倉庫の隙間から落ちる夕方の色が、さっきより深くなっている。 帰ると言い出すにはまだ早い気がして、僕は布を見つめたまま言葉を探した。 千景も同じように探しているようで、紙を胸に抱えたまま立ち尽くしていた。 その沈黙が、なぜか心地よかった。 倉庫の天井で、また微かな風が動いた。 その音が、外へ出るきっかけになるのか、それともこの場にもう少し留まる合図なのか、まだ分からなかった。
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第 10 話
倉庫の風が弱まると、静けさだけが残った。千景は胸に抱えた紙をそっと下ろし、指の跡がつくほど端をつまんだ。 「ねえ…この人、誰だったんだろ」 輪郭の途切れた笑顔を見つめる声は、諦めでも期待でもなく、そのあいだのどこかに沈んでいた。 僕は隣に立ち、紙の中央を見た。途切れた線の先には、空白が大きく空いている。そこだけ、描かれるのを待っていたみたいだった。 「たぶんさ…描こうとして、やめたんだよ」 言うと、千景が眉を寄せた。 「どうして?」 「決められなかったんじゃないかな。誰を描くか」 千景は紙をもう一度見つめ、呼吸を整えるように薄く息を吐いた。その吐息が紙の表面を揺らし、途切れた線がわずかに動いた気がした。 「…私さ、去年の春、本当は誰かに手伝ってほしかったんだと思う」 視線は僕の靴先あたりに落ちる。 「でも言えなくて、結局ひとりで描いて、ひとりでここに置いて…それで忘れたつもりでいた」 彼女の言葉に倉庫の匂いが少しだけ変わり、雪の気配が戻ってきた。外はきっと、完全に夜になりかけている。 「千景」 名前を呼ぶと、彼女はゆっくり顔を上げた。 「今なら、描けるよ」 自分でも驚くほど落ち着いた声だった。 千景は一瞬だけ目を丸くし、それから紙に視線を戻した。指先が揺れ、途切れた線の空白をそっと撫でる。 「…どんな顔だったかな」 呟きは小さいのに、倉庫の空気がそのまま受け止める。 僕は布切れを握った手を、彼女の横に差し出した。触れはしない距離。でも、差し出された意味は、千景が一番よく分かっている。 「続き、描こうよ。二人で」 千景の肩が、はっきりと息を吸い込む音と一緒に小さく震えた。 「…うん、描きたい」 その声は、春の手前にだけ生まれる温度を帯びていた。 倉庫を出ると、夜の雪が柔らかく積もり始めていた。足跡はすぐに埋もれる。でも、並んで歩く影だけは、はっきりと残ったままだった。 掲示板の画鋲がどこかで微かに揺れた気がして、僕はポケットの手袋を確かめる。片方だけ残したままの、あの日と同じ形で。 けれど、その手袋はもう、ひとりで温めておく必要はないと思えた。
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