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あの影を追いかけて の表紙

あの影を追いかけて

よはく

ピュア2026/1/2

1

放課後の風が、砂を巻き上げながらグラウンドの白線を薄くしていた。私は給水ボトルを並べていたけれど、手元よりも視線はずっと一点に吸い寄せられていた。二年のエースストライカー、宮野。走るたび、スパイクの音が耳に残る。 「佐伯、これ…置いとく?」 背後から声がして、私は肩を少し跳ねさせた。一年マネの中でも私が一番落ち着いてる、と言われるのに。声の主は同級生の遥で、氷袋を掲げて笑っている。 「あ、うん。ありがとう」 自分でも驚くほど声が軽い。気取っているようにも、逃げているようにも思えた。 そのとき、笛の音が止まり、宮野が給水所の方へ歩いてきた。汗で前髪が額に貼りつき、呼吸が荒いまま私をちらと見た。 「水、もらっていい?」 その一言で、指先が温度を失った。 「ど、どうぞ」 ボトルを渡すと、彼の指が触れ、湿った感触が残った。ささいなことなのに、しばらく離れない。 宮野は一気に水を飲み干し、ふうと息を吐いた。 「今日、もう少し走るから。あとでまた頼む」 軽く言っただけなのに、まるで秘密を預けられたような錯覚があった。 彼が走り出す背中を見送りながら、胸の奥がじりじり熱をもつ。理由はまだ名前がつかない。ただ、目が離れない。そのことだけがはっきりしていた。 夕焼けがグラウンドを赤く染める中、宮野の走る影が長く伸びていった。その影を追うように、私は氷袋を握り直した。次に、どんな顔で彼に渡せばいいのか分からないまま。

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サッカー部員とマネージャー

2

部室の窓が西日をはね返して、床に細い光の帯を作っていた。練習が終わり、私は空のボトルを洗いながら、指先の水音に耳を寄せていた。さっき宮野に触れた感触が、まだ薄く残っている気がして落ち着かない。 「ねえ、なんでマネやろうと思ったの?」 隣でタオルを畳んでいた遥が、何気ないふうで聞いてきた。 「なんでって…別に」 言いかけて、言葉が宙に浮いた。 窓の外では、片付けが遅れた三年がゴールネットを揺らしている。金属の響きが胸に刺さる。私はその音に紛れさせるように口を開いた。 「中学の時、試合で倒れた子がいてさ。誰も動けなくて…私は見てるだけだった。ずっと、あれが残ってて」 遥が手を止めて私を見る。 「それで、支える側に?」 「…まあ、そんな感じ」 本当は少し違う。あの日から、走る人の背中を見ると、置いていかれるような気がした。だから手伝えば、そこにいられると思った。そんなこと、言えるはずもない。 「佐伯、タオル預かる」 声がして振り向くと、宮野がドアのところに立っていた。髪に残る汗が光り、息は整っているのに、目だけが疲れて見えた。 「今日、助かった。水、ちょうど良かった」 そう言って軽く笑う。胸の奥がざわついて、洗ったばかりの指先がまた乾かなくなる。 「……うん」 声が少し濁った。自分でも理由がわからない。 宮野はタオルを持ったまま、廊下に目を向けた。 「明日も頼む。あ、無理なら言って」 その言葉が、距離を測るみたいにゆっくり落ちてきた。 返事をしそびれたまま、私は彼の背中を見送った。細い夕陽が廊下まで伸び、彼の影を細長く切り取っていた。 その影が曲がり角で途切れたとき、胸の底に残ったざわつきだけが、まだどこにも行けずにいた。

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佐伯がマネージャーになった経緯

3

掃除の終わった部室に、洗剤の匂いが薄く漂っていた。私は棚のラベルを貼り直しながら、指先の粘つきを気にしていた。落ち着かないのは、さっき宮野と目が合ったせいだと思っていたけれど、違う気もしていた。 「佐伯、まだいたの?」 戸口から三年の藤森先輩が顔を出した。おだやかな声なのに、胸の奥が反応する。 「鍵、閉める前に確認しに来ただけ」 先輩の姿を見ると、過去の光景が淡く浮かぶ。中学の試合、倒れた子に駆け寄ったのがこの人だった。私はただ立っていただけで、声も出なかった。 その背中が、宮野の走る姿と時々重なる。理由はまだつかめない。 「最近、よく働いてるな」 先輩は棚の端を指でなぞりながら言った。 「無理すんなよ。見てると、昔の誰か思い出す」 一瞬、呼吸が浅くなる。 「誰、ですか」 自分でも驚くほど小さな声になった。 「いや、似てるだけ。気にすんな」 先輩は笑って引き上げていった。 残された静けさの中、私は棚の縁に触れた。指が少し震えていた。 明日、宮野にどんな顔を向ければいいのか。 その答えはまだ見えないまま、窓の外で風の音だけが長く続いていた。

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過去の記憶が今に影響する伏線を置いて。

4

昼休みの中庭は、風が机の角をかすめていった。私は弁当を広げていたけれど、味がよく分からなかった。視線の先では、宮野が遥と話していた。ふだん通りの表情なのに、距離が少し近い気がした。 「宮野、これ返すね」 遥が差し出したのは、テーピングの箱だった。 「助かった。昨日のやつ、ちょい痛くてさ」 宮野が箱を受け取って、わずかに笑った。その笑いが、自分に向けられたときとは違う形に見えてしまう。 気のせいだ、と思いながら箸を進めた。でもご飯粒が喉につかえて、水筒を探す手がぎこちなくなる。 「佐伯、どうしたの?」 遥が気づいたように手を振った。 「別に。ちょっと…眠いだけ」 作り笑いを浮かべた瞬間、胸の奥がざらつく。自分でも理由の見当がつかない。 宮野がこっちを見た。 「今日の練習、テープ頼みたい。平気?」 声は穏やかなのに、私は返事に一拍置いてしまった。 「…うん。大丈夫」 その間を、遥が横目で確かめるように見ていた。何も言わないのに、胸のざわつきが広がる。意味なんてないはずなのに、誰かに触れられた跡みたいに消えていかない。 食べ終えた皿を片付けながら、私は自分の指先を見つめた。どこにも傷なんてないのに、何かを失いかけたような感覚がまとわりつく。 午後のチャイムが鳴った瞬間、宮野の姿はもう教室に向かって歩き出していた。 その背中を追うのでも、目を逸らすのでもなく、ただ立ち止まったまま、次の一歩をどう踏み出せばいいのか分からなかった。

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小さな嫉妬が火種になる展開を追加して。

5

放課後、保健室前の廊下は薬品の匂いが薄く漂っていた。テーピングのロールを取りに来ただけなのに、胸のあたりが落ち着かない。昼の沈みが、まだ体のどこかに残っていた。 角を曲がったところで、宮野が壁にもたれていた。 「あ、来たんだ」 声は軽いのに、目だけがどこか探るようだった。 「テープ、なくてさ。佐伯が来るかなって…思ってた」 その言い方に、足が止まる。 「言ってくれればよかったのに」 口に出すと、少しだけ体が前へ動いた気がした。 宮野はロールを受け取ると、指先を確かめるように触れた。 「昼、なんか変だったろ。具合悪い?」 「違うよ」 言った瞬間、胸の奥がざわめいた。自分でも驚くほど素直な声だった。 「なら、よかった」 彼は照れたように笑って、踵で床を軽く叩いた。 「今日のテープ、頼んでいい?」 私はうなずいた。うなずいた後、胸のあたりが少しだけ軽くなる。 それが何の変化なのか分からないけれど、ほんの少し前に歩き出したような感覚が残った。 保健室の窓から差し込む光が廊下に細く伸びていた。 その光をまたぐように歩きながら、次に彼の前でどんな顔をしてしまうのか、考えても答えはつかめないままだった。

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小さな一歩が関係を変える描写を追加して。

6

部室はまだ誰も戻っていなくて、窓の隙間から風が紙コップを揺らしていた。私はテーピングの端を指に巻きつけながら、宮野が来る気配を探していた。さっきの廊下での距離が、まだ体のどこかに残っている。 「佐伯、いる?」 ドアがわずかにきしんで、宮野が顔をのぞかせた。 「時間、平気?」 声はいつも通りなのに、足取りが少しだけ慎重に見えた。 「大丈夫。座って」 言うと、宮野はベンチに腰を下ろし、右足を少し前に出した。 私は膝をついてテープを取ると、包帯の巻き始めを探るように足首に触れた。皮膚の温度が、思っていたより高い。 「痛む?」 「いや…その、手が冷たくてさ」 宮野はわずかに笑った。視線が合うと、息が浅くなる。 テープを引く音が、部室に細く響いた。 私は指先の震えを悟られないように、ゆっくり巻いた。 宮野は動かない。けれど、時々、呼吸が私に向かってくるみたいに感じた。 「佐伯ってさ」 不意に声が落ちてきた。 「昼、無理してたろ。ああいうの…わかるから」 言い終えると、宮野は視線を少し外した。 「無理じゃないよ」 言いながら、足首に触れる指がわずかに強くなった。 ほんの一瞬、宮野の足がびくっと動く。 「ごめん、痛かった?」 「違う。びっくりしただけ」 巻き終えたテープの端を押さえたとき、宮野が小声で言った。 「今日のこれ…なんか、いい」 その言い方は冗談みたいで、でも目の奥だけが真剣だった。 私は返事ができなかった。 手を離したあとも、宮野の足首の温度が指に残り、消えなかった。 部室の外で誰かの笑い声がして、私は急いで立ち上がった。 宮野も続いて立ち、少し迷うように私を見た。 「また、頼む」 短い言葉が足元に落ちて、拾いきれないまま揺れ続けた。

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心身共に距離が縮まるシーン

7

部室の窓が少し開いていて、風が紙袋を転がした。 忘れ物を取りに来ただけなのに、胸の奥がそわついていた。宮野の足首に触れた感覚が、まだ抜けない。 ドアが開く音がして、遥が顔を出した。 「佐伯、ちょっといい?」 声が硬い気配を含んでいて、私は袋を持ったまま動けなくなった。 外に出ると、夕方の冷たい空気が肌を刺した。 「…宮野のこと、なんかある?」 遥は視線を合わせず、靴先を少し蹴った。 「ないよ。どうして」 自分の声が薄く震えたのがわかった。 「今日、あいつ…練習中、ずっとそわそわしてた。怪我でも悪化したかと思ったけど…違うみたいで」 遥の言葉が、体の奥にゆっくり降りてくる。 私は息を飲んだ。さっきのテーピングを思い出した。距離が近すぎたあの時間。 「私のせい?」 言った瞬間、喉の奥が詰まった。 遥は少しだけ驚いたように目を上げた。 「責めてない。ただ…大事な試合前だし、余計なことで悩ませたくないの」 余計なこと、の部分だけが刺さって残る。 私は返事を探したけれど、言葉が出ない。 遠くでボールの跳ねる音が響いて、それが胸の中のざらつきを広げた。 「…わかった」 やっと絞り出すと、遥は小さくうなずいた。 部室に戻る途中、夕陽が廊下の床を浅く照らしていた。 私はその光をまたぎながら、宮野にどんな顔を向ければいいのか分からなくなっていた。

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二人に小さな試練が訪れるように。

8

部室の前で、遥とぶつかりそうになった。 「佐伯…ちょっと話、いい?」 声は落ち着いているのに、目だけがじっとしていた。 「宮野、今日さ。集中してなかった」 遥は腕を組んで、壁にもたれた。 「佐伯と何かあったんじゃないかって、みんな気にしてる」 その“みんな”が胸に沈んだ。 「…私じゃない。そんなの」 言った途端、呼吸が狭くなる。 「でもさ」 遥が一歩近づく。 「昼も、放課後も。あいつ、あんたのこと見てたよ。気づいてないの?」 言い返せなかった。視線を落とすと、靴の縁が滲んだみたいに見えた。 「試合前だよ。あんたのせいで乱れてほしくないの」 遥の声がさらに硬くなる。 胸の奥がぎゅっと縮まった。 「…わざとじゃないよ」 声が掠れた。泣きそうなのが自分でもわかる。 遥は眉を寄せたまま、少しだけため息を落とした。 「わかってる。でも、もう少し…距離、考えて」 夕方の風が廊下をすり抜けていく。冷たさが腕に触れた瞬間、涙がこぼれそうになり、私は顔を上げられなかった。 「佐伯」 呼ばれたけれど、返事ができなかった。 そのまま歩き出す足の裏が頼りなくて、次に宮野の前でどう立てばいいのか、まったく見えなかった。

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佐伯と遥のバチバチのライバル関係が露呈。泣きたくなる佐伯

9

校舎裏の桟橋みたいな細い通路に、足が勝手に向かっていた。 誰にも会いたくないはずなのに、歩くたび胸の下あたりがじんじんして、呼吸が乱れる。遥の言葉が頭から離れない。距離を考えて、なんて言われなくても分かっていたはずなのに。 曲がり角の影に誰かの影が動いた。 「佐伯」 宮野の声だった。思わず足が止まる。 「さっき…泣いてた?」 近づいてくる足音が、逃げ道をふさいでいく。 「泣いてないよ」 そう言ったのに、声が擦れていた。宮野は眉を寄せ、私の横に立った。距離が近い。避けようとしたのに、体が言うことを聞かない。 「俺さ、今日ずっと考えてた」 宮野は壁に手をついた。指先が少し震えていた。 「なんで、お前の顔が浮かぶんだろって。練習してても、ずっと」 胸の奥がきゅっと引かれる。 「…困るよ。そんなこと言われても」 自分でも驚くほど弱い声が出た。 「困らせたいわけじゃない」 宮野はゆっくり息を吸った。 「でも、抑えられないんだ。お前のこと、見たくなるの」 言葉が肌に触れたみたいに残る。 言い返そうと口を開いたのに、何も出てこなかった。視線をそらした瞬間、胸の奥が跳ねて、息が止まりそうになる。 「佐伯」 呼ばれて、顔を上げられないまま立ちつくした。 その沈黙の間に、宮野がほんの少しだけ近づいた気配がした。 踏み出せない一歩が、足元でずっと震えていた。 このままだと、何かが変わってしまいそうで、でも逃げる力も残っていなかった。

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でも抑えきれな切れないこの想い

10

通路の奥で風が鳴って、薄い埃が足元をかすめた。逃げようとしたわけじゃないのに、後ずさると壁が背中に触れた。そこから先はもう行き場がなくて、宮野の影だけがゆっくり近づいてきた。 「佐伯」 その声が落ちてきた瞬間、胸の奥がざわついた。 「無理してるだろ。俺のせいで」 宮野は、私の横に手をついて目線を合わせようとした。指先が震えているのが見えた。 「違う…」 そう言ったのに、声が弱くて、風に持っていかれそうだった。 宮野は息を少し吐き、額にかかった前髪を乱暴に払った。 「今日、遥に言われた。集中できてねぇって」 言葉の温度がすぐ近くに降りてくる。 「本当だよ。できなかった。…お前のせいだって思った」 胸がびくっとして、視線が勝手に揺れた。 「そんな…迷惑でしょ」 出てきた言葉があまりに小さくて、言った自分がいちばん驚いた。 「迷惑なわけねぇだろ」 宮野の声が少し荒くなった。 「お前、俺がどんな顔してても気づくだろ。昼も、部室でもさ。ああいうの…放っとけねぇよ」 言葉より早く、あの日の記憶が浮かんだ。倒れた選手に駆け寄った藤森先輩の背中。何もできなかった自分。あれからずっと、誰かの痛みに触れれば、置いていかれずに済むと思ってきた。 でも今、目の前の宮野に触れたとき、自分が揺れてしまった。距離が崩れて、どこにも逃げられなくなった。 「…私、迷惑かけてるだけだよ」 うつむいて言うと、宮野がゆっくり息をのんだ気配がした。 「違う。むしろ…お前が離れたら、俺、余計だめだ」 その一言が、胸の底に落ちていった。じわっと広がって、逃げ場を全部ふさぐみたいだった。 顔を上げると、宮野がまっすぐ見ていた。 「試合、ちゃんとやるよ。でも…終わったらさ、話したい。お前と」 その“話したい”の中身を聞くのが怖かった。けれど、息をするたび胸の奥で何かが跳ねて、もうごまかせなかった。 「…試合、勝ってよ」 やっと出た言葉は、思っていたより強かった。自分の声とは思えなかった。 宮野は少し驚いて、それから笑った。 「当たり前だろ。お前が見てんなら、負けねぇよ」 笑ったのに、目の奥は緊張を帯びていて、その歪さがなぜか胸に刺さった。 彼は一歩下がり、通路の光の方を指した。 「行く。明日、ちゃんと見るんだぞ」 うなずこうとした瞬間、喉がきつくなった。声が出ないまま、それでも体は小さく動いた。 宮野が歩き出す。夕方の光が、彼の影を細長く伸ばした。練習で見慣れたあの影が、今日はなぜか揺れて見えた。私の足はまだ動かないのに、胸のざわつきだけが前に進もうとしていた。 影が角を曲がって消える。 その跡だけが残る通路で、私は深く息を吸った。湿った匂いの中に、わずかな草の香りが混ざっていた。 明日、何が変わるのかまだ分からない。でも、あの影を追いかけたくなる気持ちだけは、もう隠せそうになかった。

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