雨跡に揺れる夜
よはく
第 1 話
雨粒が窓を叩く音が、薄いホテルの部屋に染みこんでいた。出張初日の夕方、書類を抱えたまま立ち尽くすと、背後で控えめなノックがした。 「部長、あの…追加の資料、届きました」 湯浅陸は、相変わらず語尾が少し沈む。二十代半ばの彼が差し出す封筒は湿っていて、指先がひやりと触れた。私は思わず手を引き、咳払いでごまかす。 「部長って呼ばなくていいわ。こういう時くらい」 「でも…仕事ですし」陸は目を伏せたまま、小さく肩をすぼめた。 外の雨の匂いが流れこみ、靴底が濡れて光っているのが見えた。無理をさせたのだと気づき、胸の奥がざわつく。 「部屋、濡れたままじゃ風邪ひくわよ。タオル、使う?」 差し出すと、陸は少し驚いた顔をして受け取った。その指が、また私の手に触れかけて止まる。 「…ありがとうございます」 その声は、雨よりも静かに落ちてきた。 ほんの数秒の沈黙。部屋の空気がどこか変わった気がして、私は窓の外へ視線を逃がす。街の灯りが滲んで揺れていた。 「夕食、どうします?」陸が控えめに言う。「この辺、知らなくて」 言葉の選び方に迷っているのが見えて、なぜか呼吸が浅くなる。 「…少し歩きましょう。雨、弱くなってきたし」 そう言った瞬間、彼の顔がわずかに上を向く。その表情が何かを告げようとしているようで、けれど言葉にはならないまま、タオルから落ちる一滴が床に濃い跡を作った。 その跡が、なぜか気になった。ふたりの距離も、まだ形にならないまま揺れていた。
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第 2 話
廊下に出ると、雨の名残がまだ鼻にひっかかった。エレベーターを待ちながら、陸が袖口を指で触りつつ、小さな声を落とした。 「…本当は、僕じゃなくても良かったんですよね。今回の出張」 その言い方に、胸の奥がざらつく。私は横目で彼を見る。濡れた前髪が頬に貼りつき、視線だけが不安げに揺れていた。 「人事の都合よ。急に案件が動いたでしょ。経験者が少ないのよ、あの商談」 「でも、部長ひとりで行くつもりだったって…聞きました」 足元のタイルに光が反射し、彼の靴の先がわずかに震えた。ああ、この子は気にしていたのだ、と遅れて気づく。 「無理して連れてきたわけじゃないわ。あなたが一番、話を把握してたから」 そう言うと、陸は息をのみ、すぐには顔を上げなかった。代わりに喉のあたりがわずかに動く。 「…役に立てれば、いいんですけど」 その言葉は頼りなくて、けれどどこか必死だった。エレベーターの扉が開き、ふたりで乗り込む。密閉された空気に、雨と紙の匂いが混ざる。 「立ってるだけで十分助かってるわよ。あなた、意外と気が回るから」 そう告げると、陸は一瞬だけこちらを見て、焦ったように視線を落とした。頬がうっすら赤い。 階が下がるたび、言いかけた何かが彼の口元で揺れているのが分かる。私も、聞かないままでいいのか迷う。 ホテルのロビーに着く頃、雨音はほとんど消えていた。歩き出そうとした時、陸が小さく息を吸う気配がした。何か、続きを言おうとしているように。
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第 3 話
ロビーを出ると、夜気がまだ湿っていた。街路樹の葉が重たく垂れ、車の音が遠くで途切れた。並んで歩き出すと、陸が少し遅れてついてくる。 「さっきの…続き、言うつもりだったんでしょ」 自分でも強めの声になったのが分かり、舌の裏がじんとした。陸は驚いて足を止める。 「え、いえ…その…」 「はっきり言いなさいよ。歩調まで乱れてるじゃない」 言ってから、言いすぎたかと喉が熱くなる。彼は眉を寄せ、靴先でアスファルトを軽くこすった。 「…部長は、強い人だと思ってたんです。僕なんか、邪魔かなって」 その言葉の弱さが、胸のどこかをひいていく。私は横を向き、息を整える。 「邪魔なら、とっくに置いてきてるわよ」 なるべく淡々と言ったつもりなのに、声が少しだけ震えた。陸は顔を上げ、目尻がゆるむ。 「…じゃあ、よかった」 その表情が妙に近く感じて、首の後ろが熱を帯びる。私は視線を前に戻し、歩幅をほんの少し広げた。 「ほら。夕飯、早くしないと混むわよ」 陸も小走りで横に戻ってくる。靴が濡れた路面を打つ音が、並ぶたびに揃っていく。 そのリズムが、なぜか耳に残った。次の角を曲がる頃、彼がまだ何か言いかけている気配があった。
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第 4 話
店の灯りが歩道にこぼれ、湿った空気が薄く揺れた。並んで歩きながら、私はふと口を開いた。言うつもりじゃなかったのに、舌が勝手に動いた。 「…私、仕事ばかりでね。気づいたら、周りの男が全部子どもに見えてきたの」 陸が一瞬だけ息を止めた気配がした。視線は前のままなのに、肩がわずかに動く。 「子どもって…僕も、ですか」 言葉は低くて、かすかに濡れた音が混じった。私は返事を急げず、指先に夜風が触れる。 「あなたは…ちょっと違うわよ。扱いづらいけど、バカではないし」 「扱いづらい…」陸は小さく笑った。「それ、褒めてます?」 「さあね」 そう返した瞬間、胸の奥のどこかがきゅっと縮む。昔から、距離の取り方が下手だった。踏み込みすぎても、離れすぎても、後で後悔する。 店の前で足を止めると、陸が私の横顔を探るように見た。 「さっきの…違うって、本当ですか」 「え?」 「僕が、他の人と同じに見えないって」 夜風が少し強まり、陸の前髪が揺れた。声は控えめなのに、逃げ場のない近さがあった。 「…まあ。そうね」 言うと、彼は視線を落とし、靴のつま先で地面を押した。小さな動作なのに、鼓膜の奥が微かに震える。 「…じゃあ、よかった」 その呟きが、雨上がりの匂いよりも静かに染みこんだ。 扉に手をかけながら、私は気づく。彼の言葉の続きは、まだどこかに残っている。次に聞く覚悟が、自分にあるのかどうかも。
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第 5 話
扉を押すと、店内は思ったより混んでいた。湯気と出汁の匂いが絡み合い、席の間を店員が慌ただしくすり抜けていく。案内されたのは、壁ぎりぎりの細い二人席だった。 「…狭いですね」 陸が戸惑った声を落とし、肩をすくめる。私も身を寄せるしかなく、コートの袖が触れた。布越しに熱が伝わり、息が浅くなる。 メニューを手に取ろうとした瞬間、背後を誰かが通り、陸が押されて体がこちらへ傾いた。 「す、すみません…!」 彼の肘が私の脇に当たり、椅子がわずかにきしむ。思わず腕で支えると、陸の呼吸が耳のそばで揺れた。 「…大丈夫?」 そう聞くと、彼は顔を上げる。距離が想像より近くて、視線の置き場を失う。 「部長こそ…痛くなかったですか」 声が低く、どこか震えていた。私は首を振る。指先がまだ彼の腕に触れたままなのに、離すタイミングを失った。 陸はゆっくり息を吐くと、視線をテーブルに落とした。 「こういう時…なんて言えばいいのか、分からなくて」 喉がかすれ、言葉が途中で折れた。 私も返事を探しあぐねていると、店の奥で急に照明が一つ落ちた。ざわめきが起き、薄暗くなった空間で、陸が小さく身を寄せる。 「…ちょっと、びっくりしました」 袖口がまた触れる。さっきよりもはっきりと。 その近さが、妙に自然に思えてしまう。 この子を遠ざける理由を、どこかに置き忘れたような感覚だけが残った。 店の奥から店員がこちらへ向かってくる。その足音が、何かを変える前触れみたいに聞こえた。
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第 6 話
店員が照明のことを謝りに来て、代わりに温かい小皿とグラスを置いていった。湯気の向こうで、陸がほっと息をつく。 「日本酒、少しだけなら…どうします?」 そう聞かれ、迷った末にうなずいた。口に含むと、喉の奥がじんと熱を帯びる。肩の緊張がほどけ、指先が少し軽くなった。 「部長、顔…赤いですよ」 陸が小さく笑う。その声音に、胸のどこかが揺れた。 「赤いのは、そっちもでしょ」 言ってから、自分でも驚くほどまっすぐな言い方だった。陸が瞬きを繰り返し、箸を持つ手が止まる。 「え、僕…そんなにですか」 耳のあたりを触りながら、落ち着かない様子で目をそらす。 その仕草が妙に可笑しくて、思わず身を少し乗り出した。 「ほら、見せて。どこまで赤いの」 冗談のつもりだったのに、言葉が酒の勢いで前に出すぎた。陸が驚いたようにこちらを見る。距離がまた近づく。 「部長…今日、なんか…いつもと違いません?」 声は弱いのに、芯があった。私は返事の代わりにグラスを揺らし、氷の音でごまかす。 「たまには、こういう日もあるのよ」 陸は視線を落とし、何かを決めかねているように唇を結んだ。 その沈黙が、今夜だけの特別な隙間みたいに感じられた。 店の戸が開き、外の夜風がふわりと流れこむ。 その冷たさに、さっきよりも言葉が出やすくなった自分に気づき、少しだけグラスを遠ざけた。 まだ…何か言いかけてしまいそうだったから。
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第 7 話
店を出ると、夜風がさっきより冷たくなっていた。歩道の端にたまった水が街灯を吸いこみ、揺れている。並んで歩き出すと、陸が少しだけ私より後ろを歩いた。足音の間が、妙に不規則だ。 「ホテル、戻ります?」 彼の声は静かで、どこか探るようだった。 「ええ。明日も早いしね」 そう返したのに、自分の呼吸が浅いのが分かる。酒のせいだけじゃない。 陸は一歩近づき、肩がかすかに触れた。 「…その、部長。今日、もし…早めに休むなら、エレベーターまで送ります」 送る、なんて普段なら言わないはずだ。 私は横目で見る。彼は前を見たまま、喉の奥を小さく動かしていた。 「送るほどの距離じゃないでしょ」 軽く笑ってごまかしたつもりだったのに、声が思いのほか低く出た。 陸は歩幅をそろえながら、小さく息を吸う。 「…でも、今日はなんか…その…気になるんです」 気になる。 その言葉が、夜気よりも冷たく肌に触れた。 意味を聞き返したら、きっと何かが変わる。 聞かなければ、このまま曖昧でいられる。 ホテルが近づき、ネオンの光が足元を照らした。 陸がもう一度、何か言おうとして口を開きかける。 その気配だけで、今夜この後のことが、ふたりの間に静かに滲んでいくのが分かった。
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第 8 話
ホテルの入口に近づくほど、足元の光が強くなった。頭の奥がふわっと揺れ、歩幅が少し乱れる。 「…大丈夫ですか」 陸が腕を伸ばしかけ、ためらってから指先だけ私の袖に触れた。布越しの圧が小さいのに、鼓膜の裏がじりっと熱くなる。 「酔ってるだけよ」 そう言いながら、手を振り払う力が入らなかった。むしろ、そのまま触れていてほしいとさえ思った。 自分でも驚くほど、心のブレーキが利かない。 エントランスの前で立ち止まると、陸が一歩だけ近づいた。 「…部長、今日…なんか、無理してません?」 まっすぐじゃない視線が、揺れたガラスみたいにこちらを探る。 「無理なんて、してないわ」 返す声が少し低くなる。喉の奥が渇いて、息が吸いづらい。 「むしろ…今夜は、行くところまで行ってもいいって…最初から思ってたの」 言ってしまった瞬間、胸の奥が跳ね、息が止まった。 陸が目を見開き、口元がわずかに動く。 「それ…どういう…」 私は彼の袖を軽くつまんだ。握るには弱すぎる、引き止めるには十分すぎる力で。 「部屋まで…来なさい、とは言わない。でも…少しだけ、歩いてほしいの。今の私を…落ち着かせるまで」 陸は短く息をのみ、ゆっくりうなずいた。 エレベーター前の照明がふたりを包む。 扉が開く直前、彼の靴先が小さく揺れた。 その震えが、次に起きる何かの予告みたいに見えた。
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第 9 話
エレベーターを降りると、廊下は思ったより明るかった。絨毯に足を置くたび、布がわずかに沈む。その感触が、酔いをゆっくり吸い上げていくようだった。 「…ここです」 部屋の前で立ち止まりながら言うと、陸は少し離れた位置で足を止めた。肩がこわばっているのが分かる。視線は床に落ち、靴先で円を描くように動いた。 「無理なら、ここで帰っていいわよ」 自分でも驚くほど静かな声だった。 「帰れないです」 陸は顔を上げる。喉が小さく動き、息を吸う音が近くなる。 「だって…今日の部長、なんか…置いていけなくて」 その言い方が、胸の奥にゆっくり沈んでいく。鍵を差し込み、ドアが開いた瞬間、部屋の空気がふわりと流れ出す。暖かくて、少し乾いている。 中に入ると、陸は戸口のあたりで立ち止まった。 「ほんとに、ちょっとだけですから…」 声が弱く揺れ、背中の筋が張っていた。 私は一歩だけ近づいた。距離を測りながら、手を伸ばす。指先が陸の頬の少し下あたりをかすめ、彼が息を呑む音がした。 「ねえ、陸」 名前を呼ぶと、肩がびくっと動く。 「さっきね…自分でも分かってるの。酔ってるし、余裕もないし…だから、あなたに何かさせるつもりはないの」 陸はゆっくり首を振る。 「させられてるんじゃないです。僕が…勝手に、ついてきたんです」 その言葉の形に、胸の奥がきゅっと締まる。 顔を上げた彼の瞳が、照明を受けて細かく揺れた。 触れるか触れないかの距離で、私はそっと彼の襟元をつまんだ。布の感触が薄く震える。 「じゃあ…これくらいは、許して」 言葉がこぼれた瞬間、体が自然に動いた。 陸の頬に手を添え、小さく息を吸い—— 唇を寄せた。ほんの一瞬、紙が触れるくらいの軽さで。 離れた後、陸が目を瞬かせる。呼吸が揺れて、胸のあたりが上下した。 「……今の、反則です」 「知ってるわよ」 言うと、彼の喉がまた動く。 部屋の静けさが深まる。 次にどんな言葉が落ちてくるのか、二人とも掴めないまま、同じ場所に立ち尽くしていた。
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第 10 話
陸が息を整えるまでの数秒が、やけに長く感じられた。照明のうすい影が彼の頬に落ち、まだ私の方へ身体を向けきれずにいる。 私は手を引き、深く息を吐いた。酔いが少しずつ抜ける気配がして、胸の奥のざわつきだけが残った。 「…ごめん」 その一言を口にすると、陸の眉がきゅっと寄る。 「謝ること、ないです。だって…僕は…」 言いかけた彼の声が揺れ、そこで止まった。 私も続きを待てず、視線を床に落とした。 「これは…しちゃいけないことよ。立場も違うし、年も…」 言いながら、喉が詰まる。わかっていた。ずっと。 でも、今日だけは曖昧にしていたいと思った自分がいる。 陸はそっと近づき、テーブルの端に指を置いた。指先がかすかに震えていた。 「分かってます。全部。でも…部長が困ってるの、見たくないんです。今日だって…放っておけなかった」 私は顔を上げる。 陸はまっすぐではないのに、逃げてもいない視線で私を見た。 弱さを抱えたまま立っている、人間の温度だけがそこにあった。 「……ありがとう」 その言葉が喉から落ちた瞬間、肩の力が抜けた。 陸は息を吸い、少し笑った。 「部長、明日も商談ありますし。とりあえず…今日は寝てください」 口調はいつもより柔らかかったが、耳の奥に残る気配ははっきりしていた。 押すんじゃなく、引くでもなく。 ただ、ここに居ると言ってくれている。 「帰るの?」 問いかけると、陸はゆっくりうなずいた。 「はい。でも…また明日、普通に話してください。今日みたいなのじゃなくていいから」 普通に。 それがどれだけ難しいか、きっと彼はまだ知らない。 けれど、その言い方が妙に救いだった。 玄関まで見送ると、陸は靴先で絨毯を少し押しながら、控えめに顔を上げた。 「…部長。あの、あれだけは…忘れませんけどね」 頬が熱を帯び、返事ができなかった。 扉が閉まる直前、廊下の光が彼の背中に細い縁を作った。 部屋にひとり残ると、窓の外では雨上がりの水たまりが街灯をゆらめかせていた。 あの夜、ホテルに入る前に感じた、揺れた光とよく似ている。 許されないことは分かっている。 でも、その光は確かに私の足元にも届いていた。 明日、彼と普通に話せるかは分からない。 けれど、どんな形でも前に進むしかない。 あの一瞬で触れた温度が、それをそっと押し出していた。
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