青の忘れ物が揺れる店
よはく
第 1 話
夕方の店内に、油と洗剤が混ざったにおいが薄く漂っていた。レジ横の蛍光灯が小さく唸り、そこで立つ私の指先は、さっきから同じ伝票を何度も撫でている。客が途切れた瞬間、背後で控えめな咳がした。 「綾瀬さん、さっきの…大丈夫?」 山岸が声を落として言う。黒縁の眼鏡越しに、こちらを探るような視線。 「大丈夫ですよ」 そう返しながら、喉の奥が妙に乾いた。店長に名前を呼ばれたときの、あの妙な間。山岸があれを聞いていたかと思うと、皮膚の下で何かがざわつく。 山岸は棚に箱を戻しながら、肩をすくめた。 「無理は、しないほうがいいよ」 その言い方が、ただの同僚以上の何かを含んでいる気がして、私は視線を落とした。彼の癖だ。肝心なところだけ、聞こえるか聞こえないかの声になる。 レジ奥のカゴに、ひとつだけ忘れられた青いマフラーが置かれていた。昼休みに店長が「客の忘れ物だ」と言っていたやつだ。ふと触れると、布にまだ微かな温度が残っていた。 「それ、どうするの?」 山岸が近づいてきて、私の手元をのぞき込む。 「今日、持ち主来ないかなって」 言いながら、自分でも理由がよくわからなかった。ただ、その青が気にかかる。誰のものなのか。それを忘れたのは、どんな人なのか。 外で風が鳴り、店のドアがかすかに揺れた。 この先に何か変な流れが待っている気配がして、私はマフラーを握る手に少しだけ力を入れた。
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第 2 話
閉店前の空気が少し重かった。冷蔵庫のモーターが低く響く中、青いマフラーを置いたままにするのが落ち着かなくて、私はレジ奥からそっと取り出した。指先に残る糸のざらつきが気になる。 「綾瀬さん、それ…まだ気にしてる?」 山岸が段ボールを抱えたまま立ち止まる。彼の眼鏡に蛍光灯の光が揺れた。 「別に。ただ…変ですよね。忘れ物にしては、なんか」 言い終える前に、ドアのベルが鳴った。薄い風が足首をかすめる。 入ってきたのはスーツの男だった。髪が乱れていて、息が荒い。目だけが妙に冴えている。 「これ、見ませんでした?」 差し出されたスマホの画面には、同じ青のマフラーが写っていた。 胸の奥で呼吸がつまずく。彼の声が、知っている人の声に似ていた。 「…預かってます」 手を伸ばそうとした瞬間、男が低く言った。 「それ、婚約者のものなんです。今日の朝、急にいなくなって」 山岸が小さく眉を寄せる気配がした。私は言葉を飲み込み、指先を止めた。 マフラーを返す動作が、急に重くなる。 店内の空気が、さっきまでと違う温度で揺れた。
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第 3 話
マフラーをカウンターに置くと、布がわずかに沈んだ。 男はその動きを追うように身を寄せてきた。汗のにおいと香水が混ざり、鼻の奥に残る。 「朝、置き手紙だけで…」 男は指先を震わせながらマフラーをつまんだ。 「彼女、こんなことする人じゃないんです」 言い切る声に、どこか押しつけるような硬さがあった。 山岸が横からそっと言う。 「警察には?」 「行きました。でも、相手にされなくて」 男は笑おうとして、うまく形にならなかった。その目が私の手元に落ちる。 「店に来た…とか、何か聞いてませんか」 私は首を振ろうとしたのに、喉の奥で言葉が引っかかった。 思い返す。昼すぎ、レジ横に置かれていたマフラー。その横に落ちていた細い髪。黒ではなく、栗色。店長が何も言わず拾っていったあの瞬間。 言うべきか迷っていると、山岸が小声で私の肘に触れた。 「無理に答えなくていいから」 その触れ方が予想より強くて、息が乱れる。 男はマフラーを胸に抱え込み、ふっと目を伏せた。 「もし何か思い出したら、連絡ください」 名刺を置く手だけが妙に落ち着いていた。 ドアが閉まったあとも、名刺の白さだけが店内に浮いて見えた。 山岸がそれを見つめながら、ぽつりと言った。 「綾瀬さん…何か隠してない?」 問いの意味をつかみきれず、私は返事を遅らせたまま、名刺の角に指を当てた。
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第 4 話
名刺の角が指に食い込んで、紙が少しだけしなる。答えようと口を開きかけたとき、山岸が先に動いた。棚にもたれ、腕を組んだまま目だけこちらに向ける。 「さっきから…様子、変だよ」 声は低いのに、逃げ場を塞ぐみたいな硬さがあった。 「変じゃないよ」 言った瞬間、自分の声が薄く震えた。山岸の眉がわずかに動く。 バックヤードの奥で、店長の足音が一度だけ響いた気がした。 昼に拾われた栗色の髪。あれを思い出すと、胸の奥がざらつく。 言うべきなのか。でも——言ったら何かが壊れる気がした。 「綾瀬さん」 山岸が一歩近づき、手元の名刺に視線を落とした。 「その人の話…信じてる?」 「別に…どっちでも」 息が合わなくて、喉がきつく締まる。 山岸は短く鼻を鳴らし、小さく首を振った。 「無理してるように見えるんだよ。前から」 その「前から」に、胸の奥がひやりと沈んだ。 レジ横の蛍光灯がぱち、と瞬いた。 山岸の顔が一瞬かすんで、そのあと妙に近く感じる。 「何かあるなら…言ってよ」 彼の声は柔らかいのに、逃がす気がない。 私は名刺を握りしめたまま視線を落とし、言葉を探した。 言えば楽になるのか。それとも、違う泥に沈むのか。 その境目だけが、やけにくっきりと胸の内に浮かんでいた。
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第 5 話
名刺を握る手が汗で滑り、紙が少し柔らかくなった。言葉を選んでいるあいだに、店の奥のカーテンが揺れた。店長が出てきたのかと思ったが、影だけが壁をかすめて消えた。 山岸が気づいて、肩越しにそちらを見る。 「…店長、今日は変だよな」 呟く声が、いつもより低い。 「変って?」 無理に平静を装うと、喉の奥がひきつれた。 「昼、バックヤードで誰かと話してた。聞こえなかったけど…妙な感じでさ」 彼は眼鏡を押し上げながら続けた。 「栗色の髪のこと、気になってるんだろ?」 息が止まり、背中が冷えた。聞かれていたわけではない。なのに、見透かされているようだった。 「別に…ただの忘れ物でしょ」 視線をずらすと、山岸がかすかに笑った。 「綾瀬さん、そういう時の目、いつも嘘つく」 返事がつまる。山岸は一歩近づき、声を落とした。 「もしさ…店長が何か隠してるなら。俺、放っとけないから」 その言い方が、慰めにも脅しにも聞こえた。胸の奥がざわつく。 なぜ彼はここまで踏み込んでくるのか。 恋なのか、好奇心なのか、それとも別の——。 店の外で車のドアが閉まる音がした。 夕闇の向こう、ガラス越しにスーツの男が立っていた。 名刺の名前の人物。こちらを見ている。 山岸の視線と、男の視線と、私の呼吸が交わらず、空気が歪んだ。 何かが、まとまって動き出す気がした。
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第 6 話
ガラス越しの男を見た瞬間、指先の汗が一気に冷えた。名刺の文字が頭の奥でひどく鮮明になる。山岸が私の肩に手を添え、低く言った。 「…出る気? あの人に」 「別に、ただ確認するだけ」 声がうまく届かず、舌が乾く。肩に置かれた山岸の指が、微かに強くなる。 「綾瀬さん、さっきの顔…危なかった」 眼鏡の奥の視線が揺れた。心配とも違う、追い詰めるような熱がある。 私はその手を振りほどこうとして、途中で止めた。外の男が、携帯を耳に当てたまま店を見つめていた。眉間のしわが深く、唇がかすかに震えている。 ドアを開けると、夜の冷たい空気が胸に刺さった。 男が近づきながら言う。 「…今朝、家に戻ったら、婚約指輪だけ置いてあったんです。マフラーと、一緒に」 指輪。聞いた瞬間、背中がきしむ。 昼すぎ、店長が何かをポケットにしまった仕草が、ふいに蘇る。 「あなた、本当に何も知らないんですか」 男の声がわずかに掠れ、こちらの顔を探る。 言えない。知らないと言えば嘘になる。 けれど言えば、何か取り返しのつかない形で崩れる気がした。 背後で、ドアの蝶番が小さく鳴った。山岸が出てきた気配。 「綾瀬さん、戻ろう。ここ、誰が見てるかわからない」 誰が。 その言葉が胸の奥で引っかかった。 店の二階の窓に、薄い影が揺れた。 店長の姿に見えたのは、私の気のせいだろうか。
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第 7 話
男の視線と山岸の気配、そのどちらにも寄れず、私は玄関前の白いラインを見つめた。靴底がわずかに沈み、夜気の湿りが足首にまとわりつく。 「指輪も…置いてあったって、さっき言いましたよね」 自分の声が少しだけ上ずった。男は眉を寄せ、うなずく。 「ええ。机の真ん中に。あの子、そんな置き方する人じゃないんです」 言いながら、指先でスーツの袖をぎゅっとつまむ。抑えきれない癖みたいだった。 背後で山岸が小さく息を吐く。 「その話、ここで続ける必要ある?」 私の横に立った彼の肩が、少しだけ震えている。 男は山岸を一瞥し、私に向き直った。 「昼、この店の近くで栗色の髪の人を見たって聞きました。心当たり、ありませんか」 皮膚の内側がざらつく。 店長の横顔と、あの細い髪が同時に浮かんだ。 でも、それを言葉にすると何かがねじれる気がして、唇が動かない。 「…見てないです」 やっと絞り出した声は、思ったより軽かった。 男は少しだけ目を伏せた。失望とも、安堵ともつかない表情。 その時、店のほうからかすかな物音が聞こえた。 レジ奥の、閉めたはずの引き出しが擦れるみたいな音。 山岸が肩越しに振り返る。 「誰か…中にいる?」 店内の灯りはついたまま。 けれど、さっきまで見えていたはずの影が、どこにもなかった。 冷えた夜気の中、胸の奥で別の気配がゆっくり形を変える。 何かが、またひとつ動いた気がした。
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第 8 話
店の奥で鳴った音がまだ耳に残っていた。 風が止まり、ガラス戸に映る自分の肩が小さく揺れた。山岸が先に動き、鍵を確かめるようにドアノブへ手を伸ばす。 「閉まってる…でも、今の音は何だ?」 低くつぶやき、眉間にしわを寄せた。 後ろで男が一歩近づく。 「彼女、店で働いてた時期がありました。だから…気になって」 声が震え、足元で砂利がかすれた。 その言葉に胸がざわめく。 店長が昼、誰かに電話していた光景がふっと蘇る。名前も言わず、短く区切った息だけが妙に印象に残っていた。 「入るの、やめたほうがいいよ」 山岸が私の腕を軽く引く。その指が冷えていて、逆に落ち着かなかった。 それでも、私はドアの向こうを見つめ続けた。 引き出しの音は、一度だけ。なのに、店内の空気がわずかに変わった気がする。棚の影が、ほんの少しだけ角度を変えたように見える。 「…電気、つけっぱなしだね」 自分でも驚くほど小さな声が出た。 男が私の表情を読むように横顔をのぞき込む。 「もし、なにか思い当たるなら…言ってください。嘘でも本当でも、俺は聞きたい」 嘘でも本当でも。 その言葉が喉元にひっかかる。言えば、たぶん戻れなくなる。 山岸が静かに私の手首を離した。 「綾瀬さん…中、俺が先に見てくる」 そう言った彼の声は落ち着いているのに、微かに熱を帯びていた。 その熱が、何を向いているのかまでは、まだ読めなかった。
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第 9 話
山岸がドアを押すと、金具がわずかに鳴った。鍵は閉まったままのはずなのに、隙間から生ぬるい空気が流れてくる。 「…開いてるじゃん」 彼が振り返る。その目の奥に、驚きよりも別の色があった。 足を一歩踏み入れると、店内は昼より暗く見えた。蛍光灯はついているのに、棚の影が濃い。レジ横の引き出しが半端に開き、端に細い髪が一本ひっかかっていた。 栗色。 喉が強ばり、足が止まる。 「綾瀬さん、来なくていいって言ったのに」 山岸が振り返る。声は静かなのに、どこか押し戻す力がある。 「さっきの音、多分これ。誰かが触ったんだろ」 男が少し遅れて入ってきて、開いた引き出しに目を凝らす。 「…この髪、彼女のものに見える」 指先が震えていた。 山岸は肩をすくめた。 「店長かもしれないでしょ。今日ずっと様子変だったし」 その瞬間、バックヤードのカーテンが微かに動いた。 風じゃない。人の気配。 布の向こうに、誰かの影がゆっくり寄ってくる。 呼吸が浅くなる。 言うべきことが喉にからまり、形にならない。 山岸が一歩前に出た。 「綾瀬さん、下がって。ここ、変だ」 カーテンの上端がかすかに震えた。 その揺れ方が、誰かの迷いに見えて、胸の奥がざわついた。 その向こうにいるのが誰なのか——次の瞬間には、分かってしまいそうで怖かった。
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第 10 話
カーテンの影がゆっくり縮んで、ついに布が押し上げられた。出てきたのは店長だった。けれど、昼の硬さはなく、肩が落ち、手には小さく折られた紙片が握られていた。 「…悪い。隠すつもりじゃなかった」 その声のかすれ方で、長いあいだ迷っていたことが分かった。 男が一歩踏み出す。 「彼女は? 店長、会ったんですか」 店長は紙片を私に差し出した。手の震えが指先まで伝わる。 「これ、今日の夕方に店の前で渡された。名前も言わずに…ただ“預かってください”って」 紙片には、短い字が並んでいた。 “解放してください。わたしのためにも、あなたのためにも。” その下に、細い栗色の髪が一本、貼りついていた。 男はそれを見るなり膝が少し折れた。 「…俺から逃げてる、ってことですか」 店長は目を伏せる。 「彼女、ここに来た時…怖がってた。誰のこととは言わなかったけど、戻る気はないって」 男の呼吸が荒くなるのを見て、胸の奥に冷たい痛みが走った。 私より先に、山岸が動いた。 「追わないほうがいいですよ。本人が選んでるなら」 その言い方は静かで、けれど妙に強い。 男は肩を震わせ、紙片を見つめたまま何も言えなかった。 青いマフラーの色だけが、男の腕の中で浮いて見えた。 私は店長に視線を向けた。 「店長…どうして言わなかったんですか」 「言えば、誰かをまた縛る気がして。あの子がいちばん嫌がってたのは、それだったから」 店長の声は弱く、けれど嘘ではないと分かった。 誰も悪者にはならない。ただ、誰も正しくもなれない、そんな形だけが残る。 男はゆっくり立ち上がり、紙片を胸にしまった。 「…ありがとう。もう探しません」 その声は折れたままなのに、不思議と穏やかだった。 店を出ていく背中に、もう執着の影はなかった。 静けさが戻った店内で、山岸が私を見た。 「綾瀬さんも…もう、無理に抱えなくていいよ」 その言葉に返す声が出ず、私はただ大きく息を吸った。 レジ横の蛍光灯がぱち、と瞬き、その光が紙片の跡を照らした。 青いマフラーと栗色の髪。 どちらも誰かを縛り、同時に解き放ったもの。 その断ち切られた線を見届けながら、私はようやく肩の力を落とした。 背後で山岸が小さく言った。 「これから、どうする?」 答えはまだ形にならない。 けれど、空気のどこかで昼より軽い風が動いた気がして、私はその方を向いた。
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