朝光に揺れる動物たち
よはく
第 1 話
朝の冷たい空気が、校門わきの植え込みをかすかに揺らしていた。登校の流れから少し外れた場所で、僕は落ちたプリントを拾っていた。角に小さなパンダの絵がある。誰のだろう、と眺めていたら、影がひとつこちらへ伸びた。 「あ…それ、私の」 声は控えめで、でもよく通った。振り向くと、同じクラスの三浦さんが制服の袖を握って立っていた。目がこちらを見たり逸れたり、落ち着かない。 「これ? 可愛いね、パンダ」僕は差し出しながら言った。 「ちょっと…好きで」彼女は受け取り、紙の端を指先で押さえた。その手が微かに震えていて、冷えた朝のせいか、それとも別の理由かは分からない。 彼女の後ろを、始業前のざわめきが抜けていく。風に混じってほのかに甘い匂いがして、僕は思わず息を短くした。 「ありがとう」 三浦さんは小さく頭を下げ、歩き出す前に一瞬だけこちらを見た。まつ毛が揺れた気がして、胸の奥で何かが跳ねた。 パンダの絵は、彼女の鞄から少しのぞいている。そこに目が吸い寄せられて、歩き出すタイミングを忘れた。 …あの絵、いつから好きだったんだろう。 そんな疑問が、朝の冷気に溶けずに残ったまま、僕はゆっくり校舎へ向かった。
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第 2 話
午前の国語が終わったあと、教室の空気がすこし緩んだ。席を立とうとしたとき、前の机に小さな消しゴムが転がってきた。白地に、丸い象が描かれている。 「あ…それ、落としたかも」 三浦さんが机の影からのぞき込んだ。声は昨日より少し明るい。 「象、好きなの?」僕は拾い上げて差し出した。 彼女は受け取ると、指で角を押しながら目を伏せた。「動物、全部…かな。なんか落ち着くから」 言葉の終わりが曖昧で、彼女の耳がほんのり赤い。窓の外から吹き込む風が紙を揺らし、その音に紛れるように彼女が続けた。 「朝の…ありがとう。助かったよ」 視線が一瞬だけ合い、すぐ離れた。胸の奥で息が引っかかる。 「また何か落としたら言って」 軽く言ったつもりなのに、声が思ったより硬い。三浦さんは小さく笑ったように見えた。 昼休みの予鈴が鳴る。彼女の象の消しゴムが、机の端で揺れた。その揺れが、次に何を話せるのか、妙な期待を僕に残した。
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第 3 話
昼休みのざわめきが昇っていく廊下を歩いていると、前から三浦さんが小走りで来た。胸のあたりを押さえていて、息が少し乱れている。 「あの…ちょっと、見せたいものがあって」 足を止めた僕に、彼女は鞄の内ポケットを探る。指先がもたつき、眉が寄る。 「これ…新しく買ったやつ」 掌に乗ったのは、小さなゴリラのキーホルダーだった。丸い目が光に反射して、金具がかすかに揺れた。 「可愛い…よね?」 彼女は視線をそらしつつ、親指でゴリラの頭をつついた。その動きに合わせて金具が鳴り、僕の胸に小さな音が落ちた。 「動物、増えてきたね」 言うと、彼女は口の端を上げた。「…気づいてたんだ」 その一言が、思っていた以上に近く聞こえた。廊下の湿った空気が、急に軽くなる。 「他にもあるの?」 尋ねると、彼女は少し考えるように唇を触れた。「あるよ。えっと…今度、見せる」 言い終えた彼女の鞄の中で、ゴリラがまた揺れた。 その揺れが、次にどんな話ができるのか、静かに僕の中へ広がっていった。
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第 4 話
放課後の教室は、人の気配が抜けて、チョークの粉の匂いだけが残っていた。忘れ物を取りに戻った僕は、窓際で立ち止まる。誰かが椅子を引く細い音がして、振り向くと三浦さんがプリントの束を胸に抱えていた。 「あ…まだいたんだ」 声はゆっくり落ちてきて、彼女は髪を耳にかけた指をそのまま宙で止めた。 「先生に頼まれて…これ、運ぶの」 抱えた紙がふるりと揺れ、端から小さなシールがのぞいた。丸いシルエット。猫だった。 「猫も好きなんだ?」 そう言うと、彼女は紙を押さえ直しながら、少し肩をすくめた。 「…かわいく見えたから。貼ったら、ちょっと楽で」 言葉を選ぶみたいに間が空き、視線が僕の胸のあたりで漂った。 「重そう。手伝おうか?」 口にした瞬間、彼女の指がきゅっと紙を握った。 「い、いいよ…でも、少しだけ、お願い」 差し出された束を受け取ると、紙の角が指に触れ、そこに彼女の体温がかすかに残っていた。 職員室へ向かう廊下の光が傾き、並んで歩く影が床に伸びる。 三浦さんは時々こちらを見そうになって、けれど見ない。その仕草が、言葉より静かに胸へ入り込んできた。 「明日ね…もう一つ、見せたいのがあるんだ」 職員室の前で、彼女が小さく息を吸った。 その言葉だけが残り、僕は扉の音の余韻をしばらく追った。
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第 5 話
朝の教室はまだ半分眠っていて、窓際だけが強い光を受けていた。席に荷物を置いたとき、背中の方で小さな息の音がした。 「あの…これ」 振り返ると、三浦さんが両手を前に出していた。掌には、丸いカピバラの付箋が一枚。紙の端が少し折れていて、持ってくる間に気を遣ったのが分かる。 「昨日、言ってたやつ?」 聞くと、彼女はほんの一瞬だけ顎を引いた。「…見せたくて。変じゃないかなって、ちょっと…迷ったけど」 机に置いた付箋を指で押しながら、彼女の肩がわずかに上下する。近くの席の椅子が引かれる音に紛れて、彼女の呼吸がふっと揺れた。 「すごくいいと思うよ。こういうの、なんか…落ち着く」 口にした途端、彼女がぱっと僕を見た。まつ毛が光を拾って揺れ、胸の奥が急に詰まった。 「…ほんと?」 その声が思ったより近くて、息がうまく合わない。僕が頷くと、彼女は机の端を指先でつつきながら、小さく笑った。 「よかった。次はね…もっとちゃんとしたの、持ってくる」 言い終えた彼女の足元で、影が僕の方へ少し延びた。 チャイムが鳴り、彼女は振り返りかけてまた僕を見た。 その一瞬のためらいが、今日が少し特別になる予感を残した。
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第 6 話
昼の光が廊下にまとわりついて、足元が少し暖かかった。教室に戻る途中、僕は角を曲がったところで三浦さんとぶつかりかけた。彼女は胸の前で小さな紙袋を抱えていて、袋の口がかすかに揺れていた。 「あ…探してた」 息を整えながら、彼女は袋をそっと差し出した。「これ、今日の…その、ちゃんとしたやつ」 受け取ると、紙の中で何かが転がる音がした。指先に、彼女がさっきまで持っていたぬくもりが薄く残る。 「開けて、いい?」 尋ねると、三浦さんは視線を床に落としたまま、小さく頷いた。袋をのぞくと、木でできた小さなフクロウのチャームが入っていた。丸い目が少しずれていて、手作りらしい不器用さがあった。 「…作ったの?」 聞くと、彼女は袖をつまんで肩を縮めた。 「家で…ちょっと練習して。変じゃなかったら、渡したくて」 胸の奥で息が引っかかり、言葉がうまく出てこない。代わりにフクロウを指でそっと押すと、木が柔らかく鳴った。その音が、妙に心に馴染んだ。 「なんだか…落ち着く」 口にした瞬間、彼女が顔を上げた。瞳が揺れ、ほんの短い間だけ僕を見つめる。 「そっか…よかった」 その声は細いのに、なぜか僕の胸の奥で長く残った。 廊下の向こうからチャイムが鳴った。彼女は一歩下がりかけて、また近づくように言いかけた。 「ねえ…これって、その…」 言葉が途切れ、彼女は結局何も言わずに教室のほうへ歩き出した。 残ったのは手の中のフクロウと、まだ言い切られなかった“何か”の気配だった。
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第 7 話
昼下がりの図書室は、人の気配が薄くて、ページをめくる音だけが漂っていた。返却に来たついでにフクロウのチャームを指で触っていると、斜め後ろでかすかな息の音がした。 「あ…いた」 三浦さんが本を胸に抱え、僕の前で立ち止まった。髪が肩で揺れて、少し汗の匂いがした。 「今日ね…渡すつもりじゃなかったんだけど」 彼女は本の角を親指で押しながら、目線を机の木目に落とした。「相談したいことがあって」 意外な言葉に、胸の奥がわずかに跳ねた。 「相談?」 問い返すと、彼女は本を開いた。しおり代わりに挟んであった小さな紙が落ち、動物のシルエットがいくつも描かれていた。ふぞろいな線で、何度も描き直した跡がある。 「これ…文化祭のポスター、任されてて。でも、人に見せるのが、どうしても…こわい」 紙を拾い上げる彼女の指が震えていた。いつもと違う弱さに、息を吸う間が長くなる。 「見せてくれたの、僕でいいの?」 口にすると、彼女は驚いたように目を上げた。まつ毛が微かに揺れ、それからゆっくり頷いた。 「だって…あなたなら、変って言わないから」 その言葉が図書室の静けさよりも深く落ちてきた。 「もしよかったら…手伝ってほしい。色とか、配置とか…そういうの」 彼女は言い終える前に息をのみ、目をそらした。 不意に、ただ物を見せ合っていただけの時間が、別の形を持ち始めた気がした。 「うん。僕でよければ」 そう答えると、三浦さんの肩がふっと下がった。緊張がほどけるみたいに。 彼女は本を抱え直し、僕の手元のチャームを一瞬だけ見た。 その視線に、まだ続きがあるような気配が混じっていた。
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第 8 話
図書室の奥の机に移ると、午後の光が斜めに差し込んで、机の端だけが白く浮いていた。並んで座ると、椅子の脚が床で軽く鳴り、その近さに息の置き場が分からなくなる。 「ここ…明るいし、描きやすいよね」 三浦さんは紙を広げ、鉛筆を握った指をそっと整えた。けれど線を引く直前、肩がわずかにこわばる。 「ねえ…色は、どれがいいと思う?」 差し出された色見本の端が、僕の手の甲に触れた。ほんの一瞬なのに、熱が残ったまま動かない。 「この、少し薄いやつ…どうかな」 示すと、彼女は僕を見るでもなく、まつ毛をふるわせた。 「…同じの、考えてた。なんか…安心するね、こういうの」 言いながら、彼女は鉛筆を動かし始めた。紙に触れる芯の音が細く続き、不意に手元の線が揺れた。 「ごめん…近いと、ちょっと…緊張する」 頬にかかる髪を押さえながら、視線だけこちらへ寄ってくる。 「僕も、少し…」と言いかけて言葉が詰まる。 彼女は小さく笑い、僕の手元をのぞき込んだ。そのとき、肩がかすかに触れた。 触れた部分だけ、空気が変わった気がした。 「明日も…ここで続き、していい?」 紙の上をなぞる声が、机よりも近く落ちてきた。 その距離が、まだ縮む予感だけを残して揺れていた。
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第 9 話
放課後の図書室は、昼より少しだけ音が増えていて、窓の外で部活の声が揺れていた。机に広げたポスターの上に光が落ちて、絵の輪郭が柔らかく浮いた。 「今日ね…ここ来るの、ずっと待ってた」 三浦さんは鉛筆を転がしながら、言ったあとで唇をつまんだ。「変かな、こういうの」 「変じゃないよ。僕も…この時間、好きだし」 そう言うと、彼女の肩が小さく上がって、すぐ下がった。緊張と、何か別のものが混じって見えた。 「ねえ、ここの線…どう思う?」 僕が少し覗き込むと、彼女の髪が頬にかかり、その先が僕の手の甲に触れた。ほんの軽いのに、動けなくなる。 「…あ、ごめん」 彼女は指先で髪を押さえたけれど、その仕草がどこか嬉しそうで、目が合いそうで合わなかった。 「うん、いいと思う。こっちの色も合うし」 言うと、彼女は紙の端を指で押しながら、小さく息を吐いた。 「放課後さ…こうしてると、時間が早いね。もう少しだけ、続けてもいい?」 そう頼む声が、前より近い。 隣同士の影が机の上で重なって、ゆっくり揺れた。 その揺れに、明日もまたここに来たくなる理由が、ひっそり混じっていた。
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第 10 話
文化祭の前日、図書室はいつもより薄暗くて、窓の外の空がゆっくり色を変えていた。机に広げたポスターには、三浦さんの描いた動物たちが並んでいる。どれも少し歪んでいて、でも何度も描き直した跡が、やわらかく残っていた。 「…やっと、全部描けたね」 彼女は鉛筆を置き、指先で紙の端を押した。呼吸が浅くて、肩が落ち着かない。 「明日、貼り出されるんだよね」 僕が言うと、彼女は小さく頷き、視線を動物の列に落とした。 「こわいな…人に見られるの。ずっと、そうで…」 言葉が途切れ、彼女の指が紙の上で止まった。 その震えが、初めてプリントを拾った朝と重なった。 「でもね」 三浦さんは、僕の手元のフクロウのチャームを見た。 「これ渡したとき…少しだけ、変わったの。見せても、いいのかもって」 胸の奥に残っていた何かが、静かにほどけた。 「明日さ」 僕はチャームを握り直した。 「一緒に見に行こうよ。貼り出されるの、最初に」 彼女は驚いたように息をのみ、そのあとで、ためらうみたいに笑った。 「…いいの? そんな、近くで見られたら…また震えるよ」 「じゃあ、震えてるの、隣で見てるよ」 言った瞬間、彼女の頬がかすかに動いた。 図書室の奥から時計の針が鳴り、影がゆっくり伸びた。 三浦さんは席を立つ前に、そっと僕の袖をつまんだ。 「あのさ…明日、ちゃんと…言うね。ずっと途中で止まってたこと」 声は小さいのに、机の上の動物たちよりもまっすぐ届いた。 帰り際、閉じかけた夕日の光がポスターに落ち、動物たちの影が長く伸びた。 その影が重なるのを見て、明日の景色がはっきり形を持ち始めた気がした。
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