荒れた草原を渡る風が、血と鉄のにおいを薄めきれずに運んできた。夕陽に照らされた戦場の端で、エリシアは泥のついた裾を指先で摘んだまま、立ち尽くしていた。白い息が小さく震える。 「…まだ動くなよ」 低い声が背後から落ちた。振り返ると、鎧の胸に傷を刻んだ青年兵ライサンダーが、折れた槍を肩に担いでいた。睨むような目つきなのに、足元には彼女を庇うような影が伸びている。 「心配いらないわ」エリシアは言い切ったが、指に力がこもり、裾の泥がぱりと割れた。 「心配してねぇよ」ライサンダーは視線を逸らし、手袋の内で指を動かした。「あんたが倒れたら、俺らの撤退が遅れるだけだ」 棘のある物言いなのに、声の奥に揺れるものを感じて、エリシアは言葉を飲んだ。彼はいつもそうだ。突き放すようで、離れた場所に立たせてくれない。 遠くで角笛が鳴った。陽が沈みかけ、戦場の影が長く伸びる。 「戻るぞ」ライサンダーが歩き出し、エリシアもその後ろに続いた。踏みしめた土の下で、小さな石がころりと転がった。彼女はそれを拾いあげる。淡い青が夕陽に反射して、かすかに光った。 「何拾ってんだよ」 「さあ…ただ、気になったの」 ポケットに石を忍ばせると、胸の奥で息が詰まるような感覚がした。理由はまだ言葉にならない。 陣営の灯が瞬き始める頃、背中越しにライサンダーがぽつりと言った。 「あした、少し変わるかもしれねぇ」 その意味を尋ねようとした時、彼はもう歩調を速めていた。風がまた草原を渡り、青い石が熱を帯びたように指先に触れた。
夜営地の火は弱く揺れ、乾いた薪がときおり弾けた。鍋の湯気に草の匂いが混じり、エリシアは包帯を巻き終えた指先を軽く伸ばした。兵の声が低く沈むのは、今日の敗走が誰の胸にも残っているからだ。 「……きついな、今日は」 背後でライサンダーが鎧の留め具を外しながら言った。金具が触れ合う金属音が、やけに疲れて聞こえる。 「負け続きね」エリシアは火に手をかざし、かすかな熱を確かめた。「みんな、顔が沈んでる」 「仕方ねぇだろ。補給も遅れてるし、向こうは倍だ」 言いながらも、彼は視線を焚き火に落とし、指先で地面の砂をいじった。強い口調の裏に、焦りの影が見えた。 「……さっきの、『変わる』って話。あれは?」 問いかけると、ライサンダーの肩がわずかに揺れた。 「言ってもどうにもならねぇよ」 ぶっきらぼうな返事だが、目は逃げていた。 エリシアはポケットの青い石を握る。冷たさが指に張り付き、胸の奥がきゅっと縮む。 「聞かせて。知らないままの方が、動けなくなるわ」 沈黙が落ち、焚き火の火粉がふわりと舞った。ライサンダーは息を吐き、火越しに彼女を見た。 「……明日、前線の再編がある。俺は別の隊に回されるかもしれねぇ」 その言葉がゆっくり沈んでいく。火の赤が彼の頬を照らし、視線が一瞬だけ揺れた。 「離れんのは……いやだろうが」 彼は照れ隠しのように砂を蹴った。 答えようとした瞬間、遠くで角笛が短く鳴った。夜気が震え、青い石が指の中で冷たく光った。
夜の空気がわずかにざわつき、角笛の余韻が耳の奥に残った。エリシアは立ち上がりかけた膝を押さえ、揺れた呼吸を整えた。周囲の兵も顔を上げるが、緊急の合図ではないと悟ると、ため息を落として各々の作業に戻っていった。 「……脅かす音だな、毎度」 ライサンダーが眉をひそめ、外した肩当てを脇に置いた。鉄の匂いがふっと漂う。 「心臓に悪いわ」 言いながらも、エリシアは彼の腕の血の跡に気づき、手元の布を取った。 「ちょっと、見せて」 「大したことねぇよ」 そう言いつつ、彼は腕を差し出すのが少し遅れた。照れくささをごまかすように視線を逸らす。 布で拭うと、にじんだ血が薄く伸び、鉄の味が鼻にひっかかった。エリシアは指先で彼の肘を軽く支える。触れた場所がわずかに固くなった。 「別の隊に行ったら……」 言いかけると、ライサンダーの肩がぴくりと動いた。 「まだ決まってねぇって」 短い言葉なのに、声が少し低く落ちた。焚き火の赤が、彼の喉の動きを照らす。 「決まってなくても、嫌よ」 エリシアは包帯を結びながら、指先に力を入れた。 「あなたがいないと、困るの。いろいろ」 急に黙った彼が、火の向こうで目を瞬いた。 「……いろいろ、ねぇ」 わざと皮肉めいた声を乗せるが、耳の先がうっすら赤い。 風が吹き、鍋の湯気が横に流れた。火の影が揺れて、彼の表情が読みづらくなる。 「明日の朝には、命令が出る」 ライサンダーは砂を指で払った。 「どっちになっても……まあ、話す時間くらいは作るさ」 その言い方に、エリシアの手が胸元で止まる。青い石が布越しに冷えて、指に貼り付いた。 薄明かりの向こうで、まだ誰も知らない気配が動いたような気がした。
夜が白みはじめたころ、薄い靄が地面をなでて流れた。兵たちのざわめきがいつもより早く立ち上がり、冷えた空気と混じり合う。エリシアは肩にかけた外套を押さえ、まだ火の匂いが残る手を握りしめた。 伝令が巻物を掲げて読み上げる声は、朝の風にかすれながらもはっきり届いた。 「本日付、前線再編―― ……エリシア・クレインを、戦線医療補佐より外し、指揮官付き記録官へ任ずる」 「は……?」 喉の奥で言葉が転がった。周囲の兵がざわめく。医療経験のある彼女を、前線から外すなど誰も予想していなかった。 「おい、記録官って……」 背後でライサンダーの声が途切れた。彼は眉を寄せ、眠気の残った目を細めて巻物をにらむ。 「俺より先に動かすとか、意味わかんねぇだろ」 毒気を含んだ声のはずなのに、どこか胸を押さえるような仕草が混じった。 エリシアは呼吸を整えようとしたが、胸の奥が落ち着かず、外套の内側で青い石を握った。冷たさが指に張り付き、言いかけた声を止めた。 「……あなたと離れるってこと?」 聞こえるか聞こえないかの声で言うと、ライサンダーは顔を上げた。朝日の端が彼の頬に触れ、影が揺れた。 「わかんねぇ。けど……遠くには行かせねぇよ」 短く言い放ちながら、彼は手袋を握り直した。言葉より先に、足元の砂を踏む音が気持ちを伝えていた。 伝令の声が続く。 「記録官の任は、本陣にて新任将軍の補佐にあたるものとする」 新任――その言葉に、兵たちの間にまたざわめきが走った。 ライサンダーが小さく息をのみ、エリシアも視線を上げた。 本陣の奥、白い幕舎の入り口に、見覚えのない影が立っていた。 朝の光を背負い、こちらをじっと見つめていた。
幕舎の白布が風にふわりと揺れ、その隙間から姿を現した男に、周囲の声がひそんだ。 硬い軍靴の音。薄灰の外套。整った線の顔に影が落ち、目だけが深い色で光った。 「……あれが、新任将軍?」 エリシアの隣で、ライサンダーが低くつぶやいた。声にざらつきが混じる。 男はゆっくりと歩み寄り、近くで止まった。距離が縮まった瞬間、彼の香りに草と墨の匂いがわずかに混じる。記録官の補佐に、確かに必要な人間なのだと示すようだった。 「エリシア・クレインだな」 静かな声。癖がなく、冷たさもないのに、奥が読めない。 エリシアは喉の奥がかすかにつまるのを感じた。握った青い石が手の中で固くなったように思えた。 「はい。任を受けます」 言うと、彼はほんの一瞬まぶたを伏せた。 「助かる。君の評判は聞いている」 柔らかい言い方なのに、妙に距離がある。その温度差に、胸の奥で何かがずれた。 背後で、ライサンダーがわざとらしく咳をした。 「……記録官なら、前線とは無関係だよな」 口調は荒いのに、目だけがエリシアを探す。 将軍はその声音に気づいたのか、軽く視線を向けた。 「前線にも入ってもらう。状況次第では」 その一言に、空気が固まった。 エリシアは息をのみ、ライサンダーは目を細めた。 「……そういう任務かよ」 地面を靴で押し、砂がざらりと音を立てた。 将軍は言葉を重ねず、ただエリシアを見た。 その目に、何か知っている者の色があった。理由もなく、背筋が冷える。 「話がある。準備が整い次第、幕舎へ」 彼が去る足音は静かで、逆に胸の奥をざわつかせた。 ライサンダーが肩を寄せる。 「……あいつ、何者だ?」 答えられずにいるエリシアの手で、青い石が微かに熱を帯びた。 まるで、これから起きることを知っているかのように。
幕舎へ向かう途中、空は雲を引きずるように低かった。兵たちの声が遠くで途切れ、道の両脇に積まれた木箱が湿った土の匂いを放っていた。エリシアは歩幅を落とし、外套の内側で青い石を押さえた。指に触れる面が、妙に脈打つようだった。 「……無理すんなよ」 横を歩くライサンダーが、小声で言った。視線は前を向いたままだが、手袋の指先がそわついている。 「大丈夫よ」 答えた声が少し硬くなり、エリシアは唇を押さえた。 幕舎の入り口に近づくと、将軍が背を向けたまま机の地図を押さえていた。外套の裾が揺れ、墨の匂いがひんやりと漂う。 「入ってくれ」 振り返らずに言う声は静かだったが、どこか探るような響きがあった。 エリシアが中に進むと、将軍はようやく顔を上げた。目が、まるで彼女のどこか別の場所を見ているようだった。 「記録官として動いてもらう前に、確認したいことがある」 彼は机に置かれた小箱を開き、中から青い破片のような石片を取り出した。 エリシアの呼吸が止まる。 手の中の石と、同じ色だった。 「……どこで手に入れた?」 将軍の声が低く落ちた。 言い返そうとした瞬間、背後でライサンダーが身じろぎした。 「なんだよ、それ。関係あんのか?」 将軍は視線だけ向けた。 「彼女が知らないはずのものだ。……本来なら」 エリシアの胸の奥で、古い記憶のようなざわめきが起きた。けれど形にならない。 指先が震え、石を握る手が汗ばんだ。 「私……知らないわ。ただ、落ちていて」 言い終えた時、将軍はいったん目を伏せた。 「なら……まだ思い出していないだけか」 その言葉の“まだ”に、エリシアの背を冷たいものが撫でた。 幕舎の外で風が鳴った。 将軍は静かに石片を閉じ、彼女を見た。 「近いうちに話す。だが今は動揺させたくない」 その口ぶりが、逆に何か深い秘密を隠しているのを示していた。 帰り道、ライサンダーが前を歩きながらつぶやいた。 「……あいつ、あんたの昔を知ってる顔だ」 エリシアは答えられなかった。 握った青い石が、今度は微かに温かかった。 まるで何かを思い出すまで離さないと言うように。
幕舎から少し離れた場所で足を止めたとき、雲の切れ間から淡い光が落ちてきた。湿った土の匂いが肌に貼りつき、エリシアは胸元の石を押さえた。温度がまた変わっていた。さっきより少し熱い。 「歩くの遅ぇぞ」 振り返ったライサンダーが、眉を寄せたまま待っていた。 「顔、真っ白だ。……無理してんだろ」 「してないわ」 言い返す声がかすれ、彼は目を細めた。 「嘘つくとき、その声になる」 足元の小石を軽く蹴ってから、彼は肩を寄せた。距離が近づくと、鉄と汗の混じった匂いがわずかに漂う。 「将軍の話……全部じゃねぇにしても、妙だった。あんたの“昔”なんて、聞いた覚えねぇし」 エリシアは息をゆっくり吸った。肺の奥が冷え、言葉の形が定まらない。 「私も知らないの。変でしょ? でも……思い出そうとすると、どこかが引っかかるの」 握った青い石が脈打つように震え、手汗がにじんだ。 ライサンダーはしばらく黙り、地面を親指でこすった。 「……怖ぇのか?」 視線は合わせないまま、小さく言う。 返事が遅れ、彼がちらりとこちらを見る。 エリシアは唇を噛んだ。 「怖いっていうより……空白がある感じ。自分の中に、穴が開いてるみたいで」 「穴があんなら、埋めりゃいいだろ」 ぶっきらぼうなのに、言葉の端がどこか優しかった。 「将軍が何知ってようが、俺がそばにいりゃ問題ねぇよ」 そう言い切ったあと、彼は照れたように目をそらし、喉を鳴らした。 その仕草が、胸の奥にじんわりと染みた。 少し離れた場所で角笛の練習音が響いた。乾いた風が外套をめくり、青い石がふっと温度を落とす。 静かな変化が、まるで合図のようだった。 「行くか」 ライサンダーが歩き出した瞬間、遠方の本陣で何かが打ち鳴らされた。低く重い音が空気を震わせる。 エリシアは立ち止まり、音の方向を見た。 胸の奥の空白が、わずかにうずいた。 まるで誰かが、その穴を覗き込んでいるみたいだった。
本陣の方向から響いた低い音が消えるころ、空の色はさらに沈んでいた。風が乾いて、地面の砂粒が足元で細かく転がる。エリシアは一歩だけ遅れ、胸元の石に触れた。冷えていたはずの表面が、今は妙に落ち着かない温度をしている。 「……さっきの音、合図じゃねぇよな」 ライサンダーが眉を寄せ、周囲を見回した。視線は荒いのに、足取りがそっとこちらに寄っている。 「わからない。でも……嫌な沈み方」 言った瞬間、石が掌の中で小さく脈を打ったように震えた。 ライサンダーがこちらを振り返ろうとした、その時―― 胸元がふっと明るくなった。 石が突然光りだした。 青ではなく、白に近い光。外套越しでもわかるほど強く、指の間から漏れた光が地面に揺れた。 「おい、エリシア……!」 ライサンダーが駆け寄り、彼女の手首をつかんだ。触れた指先がわずかに強張る。 エリシアは息を飲み、胸の奥が一瞬だけ空白のさらに奥へ引きずられる感覚に襲われた。視界の端がぼやけ、何かが呼び起こされかけて――そこで途切れた。 光は、嘘みたいにすっと消えた。 外套の内側には、ただ冷たい石が戻っている。 「……見間違いじゃねぇよな」 ライサンダーの声が低く落ち、指先がまだ彼女の手を離さない。 エリシアは小さく首を振った。 「わかんない。でも……呼ばれたみたいだった」 遠くの幕舎で、人影がひとつ動いた。 将軍の外套が、白い布の隙間からのぞく。 まるで今の光を、待っていたかのように。
幕舎の白布が揺れ、将軍がこちらへ歩き出した。砂を踏む音は静かなのに、近づくたび胸の奥にざらりとした響きが残る。エリシアは石を握り直した。冷たいはずの表面が、じわりと汗を吸って重く感じられた。 「今の光……やはりな」 将軍が足を止め、低い声を落とした。 ライサンダーが一歩前に出る。 「“やはり”ってなんだよ。隠す気ねぇだろ」 将軍は彼を見ず、エリシアだけを見た。瞳の奥に迷いの影が走る。 「君には伝える時期が来た。無理に思い出させたくはなかったが……あの反応は、もう隠せない」 胸の内側がきゅっと縮む。言葉が出ない。 石がまた、僅かに脈を打った。 「私は……何を忘れてるの?」 自分でも驚くほど小さな声だった。 将軍は息を吸い、言葉を選ぶように視線を落とした。 「君はこの戦に“最初からいた”わけじゃない。ここに来る前――君は行方が知れなかった。あの石は、君を探すために使われた印だ」 ライサンダーが眉を跳ねさせた。 「探す? 誰が? なんのためにだよ」 将軍は答えず、ただエリシアを見た。 その沈黙が、言葉以上に重かった。 遠くで号令が上がり、風がその音をちぎって運んでいく。 エリシアは視線を落とした。 石の色が、ほんの一瞬だけ深く揺れたように見えた。 「思い出せるかどうかは……君次第だ」 将軍の声は静かで、とても遠く聞こえた。 ライサンダーが横で拳を握る気配がする。 その音だけが、今の世界で唯一確かなものに思えた。
将軍の言葉がまだ耳の奥で反響しているうちに、夜の風が一段と冷えた。焚き火の残り香がかすかに流れ、エリシアは胸の石を握ったまま立ち尽くした。指先に触れる感触が、急に違うもののように感じられた。 「……行方が、知れなかった?」 つぶやくと、石が小さく震えた。まるで返事をするみたいに。 将軍はゆっくりと首を振った。 「探していた者がいた。だが、名も、関係も……今の君には負担になるだけだ」 「隠す理由は?」ライサンダーが一歩前に踏み出す。靴の底が砂を押し、ざり、と乾いた音を立てた。「言えねぇほどのことなのかよ」 将軍は視線をそらし、幕舎の影へ落とす。 「彼女自身の意思で姿を消した。戦が始まる前、すべてを置いて。理由は……私にもわからない」 エリシアの喉がひりついた。 「じゃあ、この石は……」 「君を連れ戻そうとした者が、遺した唯一の手がかりだ」 将軍の声は硬いはずなのに、かすかな痛みが滲んでいた。 その瞬間、石が脈打った。脈のリズムが、遠い記憶のどこかに触れた気がして、エリシアは息を吸い損ねた。胸の奥で、空白に風が流れ込む。忘れていたはずの温度が、ほんの一瞬形を持った。 だが、その輪郭はすぐに揺らぎ、霧のように消えた。 「……っ」 肩が沈み、エリシアは眉を寄せた。 ライサンダーが横で息を飲む音がした。 「思い出す必要なんかねぇよ」 彼は強い言い方をしたが、声は少し震えていた。 「今のあんたで、十分だろ」 将軍が静かに目を閉じた。 「君がどう選ぶかは自由だ。過去を取り戻すか、今を選ぶか。ただ……その石だけは、手放さない方がいい」 エリシアはしばらく石を見下ろし、やがて外套の中へそっと戻した。手を離すと、胸の鼓動が急に近くなる。 「過去がどんなものでも……今のわたしが歩いてきた道まで、消えたりしないわ」 口にした瞬間、胸の奥の穴に少しだけ土が積もるような感覚がした。 ライサンダーがほっと息をつき、照れたようにそっぽを向く。 「なら……いい」 将軍は二人を見て、小さくうなずいた。 「君は、強いな」 「強くなんてないわ」 エリシアは笑った。自分でも驚くくらい柔らかい声だった。 「ただ……もう逃げないだけ」 風が吹き、幕舎の布が波のように揺れた。遠くの空には、雲の切れ間から細い光が落ちている。 エリシアはふと、その光に手を伸ばした。指先が冷えた空気を押し分け、青い石の重みが胸の真ん中で落ち着いた位置に収まる。 「行こう」 振り返ると、ライサンダーが軽く肩をすくめた。 「どこへだよ」 「前へ」 言い終えた時、彼はわずかに目を細め、背中を押すように歩き出した。 将軍はその後ろ姿を見送り、誰にも聞こえない声でつぶやいた。 「いつか……思い出す日が来ても、彼女を守れるのは、あの男だろう」 その言葉が風に溶けるころ、エリシアはライサンダーの隣に並んだ。歩幅が自然に揃う。 胸の石は、もう脈を打たなかった。ただ静かに、温かさだけが残っていた。 まるで、空白の奥でようやく決着がついたかのように。
採用ヒントはありません。