朝の商店街はパンの焼ける匂いが道まで流れていて、冬の冷たい空気を少しだけ和らげていた。角の小さな文具店の前で、亮は自転車の鍵を探しながら紙袋を脇に抱える。袋の中で、買ったばかりの便箋がかすかに揺れた。 「また来てるんだね」 背後から声がして、亮は肩をびくつかせた。文具店の店主の姪、七瀬がマフラーをいじりながら立っている。少し癖のある前髪が揺れ、目だけがこちらを探るように動いた。 「え、ああ…ちょっと。用事があってさ」 「ふうん」 七瀬はそう言いながら、店の鍵を開けた。 「便箋、前と同じの。好きだよね、それ」 「まあ…書きやすいから」 亮は言葉を続けかけてやめた。紙袋の中の便箋は、実際は誰かに渡すためのものではなかった。書いては捨てる、を繰り返しているだけだ。七瀬に言える話でもない。 七瀬はストーブのスイッチを押し、店内にほんのり温気が広がった。 「手、冷たそう。自転車の鍵、落ちてないの?」 「あ、いや。その…見当たらなくて」 自分でも情けない言い訳だと思う。七瀬は棚の陰をのぞき込み、指先で何かを拾い上げた。 「これじゃない?」 金属の小さな音がして、鍵が差し出される。 「…ありがとう」 受け取る時、指が触れた。七瀬は気にしていないように見えたが、亮の呼吸がわずかに狂った。 「今日、雪降るかもね」 七瀬が窓の外を見てつぶやく。 「帰り、気をつけなよ」 「うん」 言いたいことは別にあったのに、言葉はそこで止まった。 店を出た亮の背中に、ドアベルの音が短く響いた。 ポケットの中の鍵が、いつもより重く感じた。次に来る理由をどう作るか考えながら、亮は白い空を見上げた。
店を出たあとも、亮はしばらく自転車に乗れずにいた。ハンドルに手を置いたまま、指先に残った微かな温度だけが抜けずにいる。白い雲が低く垂れ、風が頬を刺した。 「…また来ちまったな」 自嘲のつぶやきは誰にも届かない。結局、便箋は一枚も人に渡せていない。七瀬に見つからないよう、書いては丸めて捨てるだけ。けれど足は、あの店の前まで勝手に向かってしまう。 自転車を押し出そうとした時、背後から雪の匂いが混じった足音が近づいた。 「亮くん、忘れてたよ」 七瀬の声だった。小さな紙袋が差し出される。中には、店の奥でよく見かける細い鉛筆が一本。 「試し書き用のやつ。捨てる前に、あげよっかなって」 「あ、いや…こんなの…」 言葉が途切れ、視線が揺れた。七瀬は少しだけ口角を上げた。 「書いてるでしょ? なんか。前から思ってたけど」 亮は眉を寄せ、喉の奥が強ばった。「別に…たいしたもんじゃないし」 「そっか。じゃあ、その…気が向いたらでいいけど」 七瀬はマフラーを引き上げ、目だけで笑った。風が二人のあいだを抜け、紙袋が小さく揺れる。 何か返したかったのに、その“何か”が見つからない。代わりに出たのは、頼りない声だった。 「…ありがと」 七瀬は店に戻っていく。その背中を見送りながら、亮は袋を握りしめた。芯の細い鉛筆が、胸の奥で場所を決めかねている。 次にあの店へ行く理由は、もう考えなくても良さそうだった。
亮は家に戻ると、机の前でしばらく動けなかった。袋から鉛筆を取り出すと、木の匂いがほのかに立った。芯の先を指で触れると、細いざらつきが肌に移った。 「…書けってことかよ」 誰に聞かせるでもない声が漏れる。便箋を一枚だけ抜き、机に置く。けれど文字は浮かんでこない。七瀬の「書いてるでしょ?」という声だけが耳の奥で繰り返され、胸のあたりがきゅっと縮む。 窓の外で、風に混じる乾いた音がした。雪が降り始めたらしい。街灯の下を白い粒が斜めに流れていく。 亮はため息を落とし、鉛筆を持ち直した。紙の表面に触れた先端が少しだけ震える。結局、出てきたのはたった一行だった。 「今日、ありがとう」 書いた瞬間、胸の奥がざわつく。誰に渡すでもない手紙なのに、指が熱っぽくなった。慌てて紙を折りたたこうとした時、ポストの投函音が外から響いた。 亮は身をすくめ、窓の方を見た。雪の気配が濃くなる。 七瀬も今ごろ、この空を見ているだろうか。 折りかけの便箋を握りしめたまま、亮は次に店へ行くタイミングを測りかねていた。
亮は翌朝も机に向かった。昨夜の便箋はまだ半分折れたまま、机の端でかたまっている。鉛筆を握ると、芯の先が紙の上で迷うように止まった。 「…また書けねぇのかよ」 吐き出した声が部屋に沈む。書いても捨てるだけだと分かっているのに、手は勝手に便箋を抜いてしまう。何を書きたいのか、自分でもはっきりしない。 窓の外をかすめる風に混じって、遠くで誰かの話し声がした。子どもが雪を踏む音も重なる。町の気配が近くなるほど、胸の奥がざわつく。 亮は鉛筆を紙に押しつけた。けれど出てきた線は弱々しくて、途中で消えそうになる。指先がじんとし、紙を裏返す。 そのとき、玄関の方で軽いノックがした。 「…誰だよ、こんな時間に」 立ち上がりかけた足が、雪明かりに揺れた。七瀬の顔がふと浮かぶ。来るはずがないと思いながらも、胸のどこかが落ち着かず、足取りが一定にならない。 扉の向こうに誰がいるのか分からないまま、亮は手を伸ばした。
扉を開けると、肩に雪を積もらせた男が立っていた。灰色のコートが濡れ、手には見覚えのある紙袋。 「悪い、亮。朝っぱらから」 隣の部屋に住む吉川だった。数年来の顔なじみだが、こんな時間に来ることはほとんどない。 「これ、ポストに入ってたぞ。お前宛てっぽいけど、部屋番号ずれてた」 差し出された紙袋を受け取ると、かすかにインクの香りがした。胸の奥がざらつくように波打つ。 「誰から…?」 そうつぶやくと、吉川が首をすくめた。 「知らん。けど、字が…なんか丁寧だったな。店の子か?」 亮は息を呑んだ。「は? いや、違…」 否定しきれず、言葉が濁る。吉川は苦笑し、濡れた靴を気にしながら後ずさった。 「じゃ、仕事行くわ。またな」 足音が階段に遠ざかる。 扉を閉め、亮は紙袋を開けた。 中には便箋が一枚。折り目が浅く、誰かが迷った痕跡が残っている。 そこに書かれていたのは、たった一行。 「返さなくていいよ」 七瀬の字だった。昨日、亮が書いて折りかけていた便箋とは全く違う筆跡。けれど、その短い言葉に触れた途端、指先がひりついた。 返さなくていい、という意味が分からない。 借り物なんてしていない。 鉛筆のことだろうか。 それとも―― 考えれば考えるほど、胸の奥に引っかかりが増していく。 どうしてポストに。 どうして朝に。 どうしてこの言葉を。 窓の外で、雪がざらりと落ちた音がした。 七瀬は何を思って、この一行を書いたのだろう。 気づけば亮は上着に手を伸ばしていた。 理由はまだ言葉にならない。けれど、黙っているには何かがうずきすぎた。 外に出たら、あの店に灯りはついているだろうか。
亮が店に着いた時、まだシャッターは半分しか上がっていなかった。金属が擦れる音の向こうで、七瀬が脚立に手をかけている。 「…早いな、亮くん」 振り返った七瀬のまつげに、細い雪がいくつか貼りついていた。いつもより言葉が硬い。亮は喉を鳴らし、ポケットの中の便箋を握ったまま前に出た。 「これ…ポストに入ってた。朝」 差し出す声が妙に低く響く。七瀬は手を止め、紙を受け取る指が小さく震えた。 「…あのね、違うの。返事が欲しかったとかじゃなくて」 七瀬は言葉を切り、視線をどこにも置けないように足元を見つめた。 「鉛筆、気にしてたでしょ。無くしたら困るかなって…変だよね、こんなの」 亮は息を吸い、胸の奥でざわつく何かをごまかせずにいた。 「困ってねぇよ。返せって言われたなら…」 「言ってないってば」 七瀬が顔を上げた。頬の赤みが雪の白にかすむ。 「ただ…亮くんが何考えてるか、よく分かんない時があるから」 亮は返す言葉を探し、うまく見つからない。指先が冷たくなり、紙袋の角をぎゅっと握る。 七瀬はゆっくり息を吸った。「怒ったよね。ごめん。朝から変なことして」 「怒ってねぇよ。ただ…びっくりしただけだ」 その言い方がぎこちなくて、七瀬が少しだけ目を丸くした。シャッターの隙間から風が抜け、二人の間を淡く揺らす。 「今日、店…来るんでしょ?」 七瀬の声がふわりと落ちた。 亮はうなずいた。理由はまだ整理できない。けれど、このまま帰る選択肢だけはどこにもなかった。 小さな店の明かりが、静かに灯ろうとしていた。
店内に入ると、まだ暖房が追いつかず、紙の匂いに混じって冷たい空気が残っていた。七瀬はレジの横で箱を抱え、肩をすくめた。 「今日はね、在庫の整理が多くてさ…手、足りなくて」 言い終える前に、箱が傾いた。亮は思わず腕を伸ばし、端を支えた。木箱の角が指に食い込み、七瀬の手の熱がすぐ近くにあった。 「あっ…ごめん。落とすとこだった」 七瀬が息をのみ、視線が揺れた。近すぎる距離に気づいたのは、亮の方が遅かった。触れてはいないのに、袖越しに何かが伝わる気がして、指が硬くなる。 「…持つよ。どこ置けばいい?」 「その、奥。帳簿の棚の下」 七瀬は箱からそっと手を離したが、指先が亮の手にかすかに触れた。小さな音もしないほどの接触だったのに、亮の呼吸が乱れた。 「ごめ…わざとじゃないから」 七瀬は頬に触れかけた髪を耳にかけ、顔を伏せた。声がいつもより低い。 亮は箱を抱えたまま、喉の奥がうまく動かないのを誤魔化すように歩き出した。 棚の前に置き終えて戻ると、七瀬がレシート用紙を並べていた。指先が落ち着かず、紙が少し反った。 「さっきの、ほんと…助かったよ」 七瀬は紙の束を押さえつつ、小さく笑った。 その笑顔が、店内の冷気を少しずつ薄めていく。 亮は言葉を探したが上手く出てこない。代わりに、胸の奥で小さなざわめきが長く残った。 店の外では雪が弱まり、光が差し始めていた。 その明るさに気づいたのは、二人とも同じ瞬間だった。
棚の影に差し込む光が細く揺れ、店内の空気がゆっくり温まっていく。 七瀬はレジ横の小さな机に腰を下ろし、古い伝票を束ね直していた。指の動きが途切れがちで、紙の端が何度もずれた。 「…大丈夫か?」 亮が声を落とすと、七瀬は一瞬だけ笑おうとした。けれど、うまく形にならず、まつげの先が震えた。 「ねぇ、亮くん。昨日…鉛筆のこと、気にしてたよね」 亮は返事が遅れた。胸の奥が妙に重くなる。 七瀬は視線を机に伏せ、紙を握った手に力を入れた。 「あれ、本当は…返してほしかったわけじゃないの。亮くんが書くの、続けたらいいなって…勝手に、そう思ってただけで」 紙の角が七瀬の指に食い込み、白く跡が残った。 亮はその手を見るだけで、息のし方を忘れそうになる。 「でもね、亮くん。書いてほしいなんて言えないよ。言ったら…なんか、押しつけみたいでさ」 七瀬は笑おうとした。けれど声の端が揺れ、少し濡れたように聞こえた。 「もし迷惑だったらって考えたら…眠れなくて。朝になって、変な手紙になった」 その言葉が胸に沈んだ。 亮は何か言おうとしたが、喉がうまく動かず、吐き出す息だけが白く広がった。 「迷惑なわけ、ねぇよ」 やっと出た声はかすれていた。 七瀬が顔を上げる。目の縁がわずかに赤い。 「ほんとに?」 問いかけは小さかったが、遠くまで届くような響きがあった。 亮はうなずくしかなかった。言葉にすると崩れそうで。 店の外で風が鳴り、雪がまた細く舞い始めた。 その白さを見つめる七瀬の横顔は、触れたらほどけてしまいそうだった。 二人の間に、まだ言えていない何かが静かに残ったまま、時間だけがゆっくり進んでいった。
レジの奥で、七瀬が束ねた伝票をそっと置いた。 指先はまだ落ち着かず、紙の角を触れては離している。 亮は棚に寄りかけたまま、距離をつめる理由を探した。 「さっきの…ほんとに迷惑じゃねぇよ」 それしか言えなかった。けれど七瀬は、小さく息をのんだように肩を揺らした。 「亮くんってさ…たまに、分かりづらいんだよ」 言い終えた七瀬は困ったように笑い、机の上の消しゴムを指で転がした。 軽い音が続くたび、亮の胸の奥がざわつく。 「怒ってるのか、平気なのか…考えても分からなくなる時があるの。距離、近いのか遠いのかも」 亮は返す言葉を探し、口が乾いた。 七瀬は続けた。 「でも…放っとけないの。気づくと、亮くんのこと考えてるから」 その言い方はあまりに素直で、視線を真正面から受け止められなかった。 亮は指先を握りしめ、喉の奥でうまく息が通らなくなる。 「七瀬が思ってるほど、俺…難しくねぇよ」 そう言った瞬間、七瀬がゆっくり顔を上げた。 その瞳がまっすぐで、逃げ道がなくなる。 「じゃあ…亮くんにとって、私はどういう…」 声が途切れた。 言葉は続かなかったのに、亮の胸に重く落ちた。 外の雪が窓をかすめ、白い影が店内を揺らす。 七瀬は視線を落とし、指先をぎゅっと握ったままだ。 答えられない沈黙だけが、二人のあいだに残った。 けれどその沈黙は、逃げられない問いを確かに形づくっていた。
これはダミーのテキストです(API設定未完了または呼び出し失敗時)。空はどこまでも澄んでいて、ふたりの距離だけが静かに縮まっていく。
採用ヒントはありません。