ガラス越しの週末
よはく
第 1 話
店のシャッターを押し上げた瞬間、冷えた朝の匂いが胸に入り込んだ。まだ誰もいないはずの休憩スペースから、紙をめくる微かな音が聞こえる。こんな時間に誰だ、と足を止めたら、視界の端に見覚えのある横顔があった。 「…久しぶり」 本を閉じたまま、彼は少しあごを上げた。高瀬悠人。中学まで毎日つるんで、突然転校していった幼馴染。記憶より背が伸びて、声が低くなって、それでも笑う前の目元だけは昔のままだった。 「なんで、ここに…」 うまく息が合わず、声が途中でかすれる。 「今日から入ることになってさ。偶然だな」 悠人は椅子の背にもたれ、指先で紙カップを弾いた。中のコーヒーが揺れた音が、やけに近く感じる。 視線を合わせるのがこわくて、私はロッカーの鍵を回すふりをした。三年前、彼に言えなかった言葉が喉の奥でつっかえている。 「相変わらず、朝早いんだな」 「バイト、開店準備あるから…」 返事のたびに手が落ち着かず、制服のポケットを探ったり、結んだ髪を押さえたりした。 悠人がふっと立ち上がる気配がした。 「また一緒に働くんだ。…変な感じだな」 その声は、壁に反射して狭い部屋を満たした。距離が近いわけでもないのに、背中のあたりが熱くなる。 「シフト表、もう見た?」 「え、まだ…」 悠人はカウンター脇のホワイトボードを指した。 「週末、かぶってる。よろしくな」 その言葉だけ置いて、彼は店の奥へ歩いていった。 残された空気が静かに沈んでいく。 週末、かぶってる。 その短い一文が、朝より冷えた胸の奥で、妙に長く響いていた。
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第 2 話
店の奥から戻ったときには、開店の音楽が流れ始めていた。ガラス越しの朝日がカウンターを淡く照らし、棚の瓶が細く光っている。 「お疲れ」 悠人がレジ横で振り返った。手に持った在庫リストを持ち直しながら、少しだけ眉を上げる。 「…その、久しぶりだからさ。勝手がわかんないんだよ」 声が低く落ち着いているのに、紙をめくる指先は早かった。緊張してるの、わかる。昔と同じだ。 「じゃあ、今日の補充、私やるよ」 そう言ったつもりなのに、語尾が上ずった。 「いや、一緒でいい。覚えたいし」 悠人は立ったまま私の方を見た。長く目が合うと、胸の奥がきゅっと持ち上がるようで、思わず棚に視線を逃がした。 二人で黙々と瓶を並べる。ガラス同士が触れる乾いた音が、やけに耳に残った。 「…お前さ」 悠人の声が少し後ろから落ちてくる。 「変わったようで、変わってないな」 「どっちなの、それ」 肩越しに返すと、彼は困ったように笑った。昔、ふざけた後にだけ見せた顔。 言われた意味を考えかけたところで、入口のベルが鳴った。最初の客が入ってくる。 「続きはまたあとで」 悠人はそう言って、エプロンのポケットにリストを押し込み、レジへ向かった。 その背中を目で追いながら、胸の奥で小さな引っかかりが残った。 変わったようで、変わってない。 その曖昧な一言が、次の週末のことをまた思い出させた。
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第 3 話
閉店前、床を拭いていたら、隣でモップを持った悠人が小さく息をついた。 「なあ」 その声に振り向けず、手元だけ動かした。 「…今さ、高校生でしょ。三年前に引っ越したのに…その、前に一緒に働いてたって、どういうこと?」 言った瞬間、指が冷たくなった。ずっと気になっていたのに、聞くのがこわかった。 悠人はモップを立てかけ、少しだけ首をかしげた。 「一緒に働いてたのは、ここじゃないよ」 「え…?」 「覚えてないか。中学のとき、夏祭りの屋台。あれ、バイト扱いだったんだってさ」 苦笑しながら、前髪をかき上げる。 夏の夜のざわめき、焼きそばの油の匂い、金魚すくいの水音。胸の奥から古い景色がふっと浮かんだ。 「言わないと、わかんねえよな」 悠人は少し肩をすくめた。「引っ越す前、最後に一緒にいた日だったろ」 返事が遅れ、握ったモップの柄が手に食い込んだ。 思い出したくなかった記憶ほど、やけに色が濃い。 「……ちゃんと、話すから。今度」 悠人の声は、店内の静けさに滲んだ。 その“今度”が、どんな話を連れてくるのか。 閉店の音楽が流れ始めても、胸の奥のざわつきだけは収まらなかった。
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第 4 話
翌日の夕方、店に着くと、バックルームの蛍光灯がひとつだけ点いていた。扉の隙間から小さな影が揺れる。入る前から、誰か分かった。 「…来ると思った」 棚にもたれた悠人が、片手で紙カップを回していた。湯気はほとんど残っていない。 「昨日の、続き」 そう言う声は強くないのに、逃げ道を塞がれたように感じた。 「なんで…戻ってきたの」 自分でも驚くほど小さな声だった。 悠人は一度だけまばたきをして、目線を落とした。カップの縁を指でなぞる癖は昔と同じ。 「家の都合とか、いろいろあるけどさ。それだけじゃねえよ」 言い切らず、唇が少し動いたまま止まる。 「最後の日のこと、ずっと引っかかってて…そのまま離れんの、違う気がした」 胸の奥がじわっと重くなる。あの夏祭りの夜、名前を呼ばれた瞬間の空気まで蘇った気がした。 でも、彼の顔を見られなくて、スニーカーの先だけ見つめた。 「別に、責めに来たとかじゃねえ。ちゃんと言葉にしたいだけ」 少し笑ったような声で、それでも視線だけは外していた。 「週末、時間あるだろ。話すよ。全部」 そこまで言うと、悠人はカップを捨て、扉に手をかけた。 「じゃ、シフト行くか」 残った空気がわずかに揺れて、指先が冷えた。 全部。 その一言が、明日の時間を急に近く押し寄せさせた。
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第 5 話
週末の夕方、外の風が冷えてきて、ガラス越しに街灯がゆっくり灯り始めた。 休憩スペースのソファに座ると、膝の上で指が落ち着かず動いた。約束の時間より少し早い。落ち着けと言い聞かせても、息が浅くなるばかりだった。 扉が軋んで、悠人が入ってきた。フードを軽く払って、私の正面に立つ。 「待った?」 「今来たとこ」 声が思ったより高く響き、慌てて視線をテーブルへ落とした。 悠人は座らず、棚の影に寄りかかって腕を組んだ。 「最後の日、覚えてるか」 その言い方が妙に慎重で、喉の奥がつまった。 「祭りの帰り、送ってく途中でさ。お前、急に走っていったよな」 彼は片眉を上げた。 「何も言わず。あれ、ずっと残ってたんだ」 頭の奥で、夜風の匂いが蘇った。屋台の明かりが遠くなるのがこわくて、名前を呼ばれた瞬間、足が勝手に動いた。 「……ごめん」 それしか出てこなかった。 悠人は目を伏せ、指先で袖を軽くつまんだ。 「怒ってたわけじゃねえよ。ただ……あの日、言おうと思ってたことがあったんだ。忘れられるような日じゃなかったから」 その一文が、胸に静かに沈んでいく。 忘れるはずがない——私も同じだった。言えなかった理由が、まだ言えないまま残っている。 「つづき、聞く?」 悠人が少しだけ前に出た。 答えようと口を開く前に、店の奥のベルが短く鳴った。 言葉が喉で止まり、互いにそちらを見る。 時間はまだあるはずなのに、急に揺らいだ気がした。
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第 6 話
客が帰り、店内が静けさを取り戻したのは、夜のBGMが少し低く聞こえる頃だった。 レジから戻った悠人が、私の前で足を止めた。 「…続き、いいか」 さっきより声が落ち着いているのに、指先だけが落ち着かず揺れていた。 頷いたつもりなのに、喉が乾いて音が出なかった。ソファに座り直すと、布のこすれる音が妙に大きく響く。 悠人は少し距離を置いて腰を下ろし、息を吸った。 「あの日さ、言おうとしたのは…お前が思ってるほど、大したことじゃねえよ。ただ…ちゃんと伝えたかった」 言葉の途中で、こっちを一瞬だけ見る。その視線に胸の奥が跳ね、呼吸が浅くなる。 「お前、いなくなるみたいな顔してたから。追いかけようとしたのに…呼んだら走ってくし」 苦笑しながら、袖口を軽く引っ張った。 「でも、今日なら言える気がする」 その“今日”が、やけに近く響いた。 私も気づいていた。彼がここに戻ってきてからずっと、どこかでこの瞬間を待っていたことに。 「悠人…」 名前を呼ぶと、彼の肩がわずかに動いた。 「私も、聞きたい。逃げたくないから」 互いにほんの少し前に傾く。 気づけば、外の風の音すら遠くなっていた。 今日がその時。 そう思ったのは、きっと私だけじゃなかった。
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第 7 話
バックルームの扉が閉まると、店のざわめきが一枚隔てられて、空気がやわらかく落ち着いた。 ソファの端に座ると、膝の上の指がまた勝手に動きはじめる。止めようとしても、落ち着きがどこにも見つからなかった。 悠人は少し遅れて腰を下ろした。距離は、手を伸ばせば触れられそうで触れられないくらい。 「さっきの…続きだけどさ」 低い声が横から落ちてくる。 「ほんと、たいした話じゃないって思われたら困るけど」 「困るって、なにそれ」 口に出した瞬間、自分でも驚くほど息が浅かった。 悠人は少し笑い、視線をテーブルに落とした。その横顔が、どこか言い出すのを迷っている。 「祭りの帰り、呼んだだろ。お前が振り返った時、言おうと思ったんだ」 彼は、手の甲を軽く指でなぞりながら続けた。 「また来年も、一緒に行こうって。…それだけだったのに」 胸の奥が跳ねて、思わず息を止めた。 その言葉を、三年前の自分が聞いていたらどうしていたんだろう。逃げずにいられただろうか。 「言えなかったの、ずっと気になってたんだよ。くだらないって思われてもさ」 悠人は顔をこちらに向ける。視線がぶつかった瞬間、喉に小さな熱が生まれた。 「……くだらなくない」 やっとのことで声が出た。 「だって、あの時…走ったの、私のほうだったから」 視線を落とすと、指先がじんと熱くなる。 悠人が、少しだけ近づいた気配がした。 「今は、逃げねえの?」 囁くみたいな声で言われ、肩がびくっと震えた。 「逃げないよ」 言い切った瞬間、彼の指がそっとテーブルの端を押し、距離がほんのわずか縮まった。触れてはいないのに、触れられたように感じる間合い。 悠人が、小さく息を吐いた。 「そっか…なら、よかった」 何が“よかった”のか聞き返そうとした時、店の外で風が窓を揺らした。冷たい音なのに、ふたりの間だけは不思議とあたたかいままだった。 言葉にしきれない何かが、あと一歩手前で静かにとどまっている。 その続きは、きっともうすぐ届く気がした。
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第 8 話
バックルームの空気が、さっきより少しだけ重く感じた。 悠人は前のめりになったまま動かず、指先だけがテーブルをゆっくり押していた。その仕草が落ち着かなくて、胸の奥がじわっと熱をもつ。 「さっきさ」 自分の声が思った以上に細く響いた。 「私も…言わなきゃいけないこと、ある」 悠人が顔を上げる。驚いたわけじゃないのに、まつ毛がほんの少し震えた。 「言わなくてもいいけど」 そう言いながらも、目だけは逃げてくれなかった。 それが余計に、言葉を止められなくした。 「三年前、走ったの…こわかったからじゃない」 膝の上の指を握り込む。 「呼ばれた時、返事したら、何か変わっちゃいそうで…追いつけなかったの、私のほうだった」 悠人は息を詰めたように見えた。 「…変わるって、何が」 低く抑えた声に、喉の奥がつまる。 答える前に、心臓のあたりがぎゅっと縮んで、言葉が出てこなくなる。 それでも逃げたくなくて、視線を上げた。 「悠人と…また来年も、って言われたら…期待しちゃうじゃん」 そこで言葉が止まった。 彼の目が、思ったより近くにあった。 悠人はゆっくり息を吐いた。 「……そっか。言えばよかったんだな、あの日」 その一言が、妙に胸の奥に残った。 言いきれなかった言葉がまだどこかにある気がして、ふたりの間の空気がまた静かに揺れる。 続きは、きっとここからだった。
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第 9 話
店の奥で冷蔵ケースの音がうなる。 それだけなのに、やけに静かに感じた。 息を吸うたび、胸のあたりが微かに持ち上がるのがわかる。 悠人は、テーブルの端に置いた指を離し、膝の上で握った。 「…じゃあさ」 声が低くて、少し掠れていた。 「期待されても、よかったんだよ。俺は」 喉の奥がきゅっと縮んだ。 返事をしようとしても、息ばかり増えて声にならない。 彼は続けた。 「お前が振り返った時さ。顔、ちゃんと見えなくて」 視線を落とし、指先をゆっくり揉む。 「泣いてたのか、怒ってたのか…わかんなくて、怖かった」 「泣いてないよ」 即座に否定したのに、声が揺れた。 悠人が少し笑う。 「ならいいけど。…でもさ、逃げた理由、聞けてよかった」 そこで彼は一度息を飲む。 その仕草が、三年前より少し大人びて見えた。 「俺さ」 横顔のまま、ゆっくり言葉を探すみたいに間を置く。 「戻ってきたのは、ちゃんと区切りつけたかったからだって…思ってたんだけど」 私は顔を上げた。 悠人の視線が、まっすぐこっちを射抜く。 逃げ場をつくるような優しさじゃなくて、届かせようとする目。 「違ったかも。区切りじゃなくて…もう一回、ちゃんと始めたかったのかもしれない」 胸の奥がはねて、呼吸が止まった。 さっきまでの空気より重くて、でも痛くはなかった。 「今さらって思うなら、それでいい。無理に答えろとも言わねえ」 彼は指を組んだまま、少しだけ肩を落とした。 「ただ…今日ここで話せて、やっと動ける気がしてる」 今日、今から動き出すかもしれない。 私次第で。 その言葉を自分の中でそっと繰り返す。 膝の上の手がじんわり熱くなり、握りしめた指がわずかに震えた。 「悠人」 名前を呼ぶと、彼が小さく息を吸った。 その音だけで、世界が近づいた気がした。 言いたい言葉が、喉のすぐそばまで来ている。 でも、まだ形にならない。 この一歩をどう踏み出すのか、確かめるように息を整えた。 答えは、次に続く。
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第 10 話
喉の奥につかえていた言葉が、ようやく形になりかけていた。 深呼吸すると、冷蔵ケースの低い音が胸の奥まで染みていく。 逃げたくない。ここまで積み上げてきた全部を、やっと掴めそうな気がした。 「悠人…」 呼ぶと、彼は膝の上の指をぎゅっと結んだ。 「うん」と小さく返る声が、思ったより近かった。 「三年前、振り返れなかったのって…」 視線が揺れて、テーブルの端がにじむ。 「言われたら、嬉しくなりすぎる気がして…こわかったんだよ。変わっちゃうのが」 言った瞬間、肩の力がすっと抜けた。 本当はずっと言いたかった。 どんなに小さな言葉でも、あの日の自分にとっては前が見えなくなるほど大きかったこと。 悠人は驚いた顔でもなく、笑ってもいなかった。ただ目だけが、少し熱を帯びたみたいに見えた。 「変わってもよかったんだけどな」 彼はゆっくり言った。 「だって、それが俺の…望んでたことだったし」 言葉の途中で、彼は視線を落として息を継いだ。 テーブルの木目を親指でたどる癖は、昔から変わらない。 「お前と来年の約束してさ。その先も、普通に一緒にいるもんだと思ってた。勝手にな」 胸の奥がかすかに跳ねて、指先が熱を帯びる。 「……私も、そう思ってたよ」 絞り出すように言うと、悠人が顔を上げた。 まっすぐな目だった。逃げ道を探す気配がどこにもない。 「じゃあさ、もう一回だけ聞いていい?」 少し息を整えて、言葉を置くみたいに続けた。 「また来年も、一緒に行こうって言ったら…今は、逃げない?」 喉の奥が震えて、返事までの時間がゆっくり流れる。 それでも、もう迷わなかった。 「……逃げないよ」 静かに言うと、胸の奥のわだかまりがほどけていくのがわかった。 「今年も、来年も…ちゃんと隣で聞きたい」 悠人の肩が揺れ、目元が少しだけ緩んだ。 その表情が、なんだか昔のままで、でも今のほうがずっと大人びて見えた。 「そっか。じゃあ…よかった」 落ち着いた声なのに、ほんの少し震えていた。 ふたりの間の空気が、ゆっくり満ちていく。 その時、店の外で風がガラスをかすかに叩いた。 音は冷たいのに、不思議と背中のあたりが温まる。 悠人がそっと手を伸ばす。 触れる前で止まった指先が、照れたように震えた。 「今年の祭りさ。屋台、まだ同じ場所だと思う?」 「知らないけど…見に行けばわかるよ」 言うと、彼が小さく笑った。 「じゃ、行くか。一緒に」 三年前の夜に置いてきたはずの約束が、静かに息を吹き返したみたいだった。 胸の奥で小さく跳ねた鼓動が、今度は私を前に押してくれる。 扉の向こうにはまだ夜が続いている。 でも、その先の景色がやっと同じ方向に伸びていく気がした。 小さな再会から始まった時間が、ようやくひとつの形になった。 続きは、ふたりで歩きながら確かめていけばいい。
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