朝の廊下に、まだ冷えが残っていた。窓の隙間から流れ込む風が制服の裾を揺らし、そのたびに古い校舎の匂いが鼻の奥に残った。僕は鞄を持ち替えながら、昇降口の影に立つ誰かを見つけた。 「…おはよ」壁にもたれたまま、志乃が小さく手を上げた。細い指が光を受けて淡く見えた。 「早いね」僕が言うと、彼女は靴先を動かした。「眠れなくてさ。変な夢、見たんだ」 どんな夢か聞こうとしたが、彼女は視線を階段に向けたまま続けなかった。言うか迷っているような、喉のあたりで言葉が溜まっている気配だけが伝わる。遠くでチャイムの試し鳴りがして、それが話題を断ち切った。 「ねえ」志乃が僕を見る。瞳の奥で光が揺れた。「今日、帰りに少し寄り道しない?」 理由は言わなかった。けれど、彼女の声に含まれた微かな揺れが、胸の奥に小さな波紋を作った。 「いいよ」そう答えた瞬間、彼女は短く息を吸った。 校庭の木々が風でざわつく。どこかで落ちた鍵の音が響く。なぜだか、そのどれもが今日の始まりを告げているように感じた。 志乃が見たという夢のことが、ふと気になったままだった。
放課後の空気は、朝よりいくらか柔らかくなっていた。校門を出ると、志乃は袖をつまんで小さく息を吐いた。 「…こっち」そう言って歩き出す。声は控えめなのに、足取りだけは迷いがなかった。 並んで歩くと、彼女の鞄がときどき僕の腕に触れた。そのたびに、薄い布越しの温度が伝わってきて、呼吸の間隔が少しだけ乱れた。 「夢のこと、気になるんでしょ」志乃が横目でこちらを見る。前髪が揺れて、眉の影に小さな緊張が見えた。 「いや…無理に言わなくても」そう言うと、彼女は首を振った。 「言おうとしたんだけどさ。起きたら、形だけ残ってて…変なんだよ。誰かに呼ばれた気がして」彼女は指先をぎゅっと握った。「でも声は、よく思い出せないの」 夕陽がマンションの壁に反射して、志乃の横顔を薄く照らした。どこか遠くを探しているような目だった。 「それで、寄り道って?」僕が尋ねると、彼女は歩みを止めた。 「うん。確かめたい場所があるの」少し迷ったあと、僕の方へ向き直った。「ついてきてくれる?」 その問いの奥に潜む、言葉にならない揺れが胸に触れた気がした。 前方の路地に、風で落ち葉が転がっていく。そこが、彼女の向かう先らしかった。
路地を抜けると、空気がひんやり変わった。家並みの途切れた先に、小さな神社がぽつんと立っていた。石段の上で風鈴が揺れ、乾いた金属音が耳に残る。 「ここ…かも」志乃が声を落とした。鳥居の赤が、夕暮れの色に沈んで見えた。 「夢に出たの?」僕が聞くと、彼女は返事をせず、石段を上り始めた。足音が一定に響くのに、背中はどこか落ち着かない揺れ方をしていた。 境内に入ると、木の匂いが強くなった。志乃は拝殿の前で立ち止まり、袖を指で押さえる。 「知らないはずなんだけど…初めてじゃない感じがするんだ」言葉がこぼれると同時に、彼女は目を伏せた。「変だよね」 「別に」僕は横に立った。「来てみたいって思ったなら、それでいいよ」 彼女は一瞬だけこちらを見た。何か言いかけたように唇が動いて、また閉じた。その微かな動きに、胸の奥がきゅっと縮まる。 「…もっと覚えてたらよかったのにな」小さくつぶやき、拝殿の木柵に触れた指が震えた。 その時、社の裏から砂利を踏む音がした。風とは違う、誰かの気配のようだった。 志乃が息をのみ、僕の袖をそっとつまんだ。視線の先に、影がゆっくり揺れていた。
砂利の音は一度途切れ、また近づいてきた。夕暮れの色が境内に染み込み、影だけが先に姿を見せた。 「…あ、ごめん。驚かせた?」 現れたのは、年配の神主らしい男性だった。白い装束の袖が風に揺れ、柔らかい視線だけが僕らの緊張をほどいた。 志乃は指先を離さず、小さく頭を下げた。 「えっと…見学、です」 「そうかい。今日は人が珍しいからね」 神主は笑うと、拝殿の柱に手を添えた。 「この神社、時々ね。不思議な夢を見た子が来るんだよ」 志乃の肩がわずかに沈む。 「夢…」とつぶやき、僕の袖をまたつまんだ。「どんな夢ですか」 「詳しくはみんな違うけどね。不思議と、この場所だけは共通でね」 神主は拝殿を見上げた。 「昔ここで、誰かを待っていた気がする、と言う子が多い」 志乃は息を呑んだ。僕には、彼女の呼吸が細く震えるのを耳の奥で感じた。 「待ってた…?」 言いながら、彼女は拝殿の木にそっと触れた。まるで何かを確かめるように指が動く。 神主はふと僕らを見比べた。 「君たち、もし時間があるなら裏の小径を歩いてみるといい。あそこだけ、昔のまま残っているから」 その提案に、言葉より先に志乃が僕を見る。 迷いと、知らない何かに触れたような光が揺れていた。 「行ってみたい…かも」 その声は、いつもより少しだけ小さかった。 神主の言った“昔のまま”という言葉が、どこか胸に引っかかったまま、僕らは裏手へ向かって歩き出した。
裏手に回ると、木々の密度が急に深くなった。枝の隙間から入り込む夕陽が細い帯になり、地面に淡い模様を落としていた。空気はひんやりしているのに、どこか湿った匂いが混じっている。 「…こんな道、あったんだね」 志乃は声を抑え、足先を慎重に運んだ。落ち葉を踏む音が、やけに耳に残る。 小径の先で、光が揺れていた。木漏れ日より少し強く、でも人工の灯りとも違う。水面に映った月を見ているような、形の定まらない明るさだった。 「ねぇ…あれ、見える?」 志乃が袖をつまみ、僕の腕を軽く引いた。指先に力が入っているのが分かる。 「うん。でも…なんだろ」 近づくほど、胸の奥でなにかがきしむような感覚がする。懐かしいようで、まだ触れたことのない何かを思い出しそうな感覚。 志乃は光の前で立ち止まった。 「ここ、知ってる気がする。理由は…全然ないんだけど」 言葉の途中で、彼女のまつ毛がゆっくり震えた。光がその影に入り込み、泣きそうにも笑いそうにも見える表情をつくった。 風が一度だけ吹き、小径の奥で枝が揺れた。光もそれに合わせて形を変える。呼吸が浅くなる。志乃が小さく息を吸った。 「もしかしたら…思い出せるかもしれない」 その声は、どこか遠くを聞いているみたいだった。 光は、僕らを待つように揺れていた。
光の揺れは、小径の奥に吸い込まれるように細く伸びていた。志乃はその先に手を伸ばし、ためらうように指を止めた。 「…触れてみてもいい?」 まつ毛の影が揺れ、声が少しだけ荒んでいた。 「危なくなさそうなら、たぶん」 僕が言うと、彼女は息を整え、そっと指先を光の中心へ滑らせた。 瞬間、空気がかすかに震えた。木立の匂いが変わり、夏でも冬でもない温度が肌に触れた。耳の奥で、小さな鐘を鳴らしたような音がした。 「え…今、聞こえた?」 志乃は僕の腕をつかんだ。指が冷たい。 僕も言葉が出なかった。光の奥に、薄い模様のようなものが浮かんでいた。輪郭は曖昧なのに、なぜか見覚えがある気がした。 それは二つの影が並んで立っている形に見えた。 志乃が小さく息を呑む。 「これ…私たち、なの…?」 確かめるように光へ顔を寄せると、模様が一度だけ明滅し、すぐに消えた。 風が通り抜け、木の葉が擦れる音が現実へ僕らを戻した。 志乃は指先を見つめたまま動かなかった。 「ねぇ…今の、何だったんだろ」 揺れた声の奥に、まだ言葉にできない何かが潜んでいた。 消えた光の跡に、うっすらと道が続いているように見えた。 その先に視線を向けると、胸の奥で静かな波が立った。
道の続きは、さっきよりも薄暗かった。枝が低く垂れ、風が通るたびに細い音を立てる。志乃は一歩だけ前に出て、すぐ振り返った。 「…ねぇ。あの影さ」 声は小さいのに、言葉の端だけが急いでいた。 「私たち…だったのかな」 「分からないよ。でも、何か意味はある気がする」 そう答えると、志乃は視線を落とし、指先をぎゅっと握った。 「変なこと言うけどね」 少し息を詰め、「あの影…私じゃなかった気がするの」と続けた。 胸の奥で何かが揺れた。 「じゃあ、誰だと思うの」 志乃は答えず、代わりに小径の奥を見つめた。 「ずっと前に…誰かと、この場所にいた気がする。名前も顔も、ぜんぜん出てこないのに」 その言葉が空気に溶けた瞬間、遠くで木が折れるような音が響いた。 僕らは同時にそちらを向く。 薄闇の中、誰かの気配がかすかに揺れた。 志乃の唇がわずかに震える。 「…待ってた、みたいな感じがするんだ」 その声は、光よりも淡く小径に沈み込んでいった。
気配はすぐには形にならず、木々の間で揺れ続けた。風より遅く、遠ざかるでも近づくでもない。志乃は袖をつまんだまま、息を細く吐いた。 「…怖いとかじゃないの」 言葉を置くように続ける。 「でも、胸がざわってして…落ち着かない」 僕は踏み出した彼女の足元を見る。落ち葉が少しだけ沈み、踏んだ感触が伝わってくるほど近い。 「戻る?」と聞くと、志乃はゆっくり首を横に振った。 「もう少しだけ…確かめたいの。ここで、何を待ってたのか」 視線は小径の奥に向いたまま。まつ毛が光を拾い、揺れが影になって頬に落ちた。 その時、風が一筋だけ吹き抜け、枝の間で短い音が跳ねた。 気配が、ふっと形を変えたように感じた。誰かが背中越しに立ち止まった瞬間みたいな、曖昧な重み。 志乃は小さく身を縮め、僕の腕に触れた。 「今…わかった気がしたんだ。誰を待ってたのかじゃなくて…どんなふうに、だったのか」 「どんなふうに?」 問い返すと、彼女は唇を結び、しばらく黙ったまま。 「…会えるって、信じてた感じ」 その声は、夕闇よりも淡く揺れた。 小径の先に、薄い光の粒が一つだけ浮かんでいた。 まるで何かが導くようにゆっくり瞬いている。
粒の光は、僕らが気づいたことを確かめるように、ふわりと揺れた。志乃はその方向に半歩だけ近づき、止まった。吐いた息が白くもないのに、ひどく薄く感じた。 「ねぇ…」 彼女は僕を振り返らずに言った。 「もし、待ってた相手が…今じゃないならさ。ずっと前とか、そんな時間だったら…どう思う?」 「どうって…」 言葉を探しながら、彼女の肩越しに光を見る。揺れ方が、どこか呼吸と重なる。 志乃は手を胸のあたりに置き、くぐもった声で続けた。 「変だよね。でも…あの影を見た時、ここに来た理由が少しだけ分かった気がしたの。誰かじゃなくて…何かを確かめたかっただけなんだって」 彼女の指先が震え、落ち葉がひとつ動いた。 その小さな音が、距離を測るみたいに僕の耳に届く。 「志乃」 呼ぶと、ようやく彼女は振り返った。瞳の奥の揺れが、夕闇の色をゆっくり吸い込んでいく。 「一人じゃないよ」 自然とその言葉が出ていた。 志乃は目を伏せ、短く息を飲んだ。 「…知ってる。今は、そう思えるの」 言い終えると、彼女はそっと僕の袖をつまんだ。 いつもより少し強く。 だけど、離すつもりのない触れ方だった。 「ほら」 袖を引いたまま、小径の先を示す。 「まだ…行けるよね?」 光の粒が、僕らの歩幅に合わせるみたいにまた瞬いた。 その揺れに呼ばれるように、僕らは並んで歩き出した。 落ち葉の音が、さっきよりも静かに感じた。 志乃の肩が、ほんの少しだけ僕の腕に触れたまま揺れた。 そのわずかな体温が、小径の薄闇より確かなものとして残った。
小径の奥は、もうほとんど夜に近い色をしていた。光の粒は先導するようにゆっくり揺れ、時折、志乃の髪に反射して淡い輪をつくった。僕らはそれを追いながら歩いた。足元の落ち葉が深く沈み、踏むたびに柔らかい音を返す。 「ねぇ…」 志乃が足を止めた。袖をつまんだ指が、ためらうように揺れる。 「変なことばっか言って…ごめん」 「別に」 そう言うと、志乃はうつむきながら小さく息を吐いた。 「ここまで来てさ。思い出せたの、ひとつだけなんだよ。ちゃんとじゃなくて…形だけ」 「どんな形?」 問い返すと、彼女は胸の前で両手を重ねた。触れていない何かを抱えるみたいな仕草。 「…誰かが、待ってたの。理由は分かんないけど、ずっと。来るはずのない相手を、来るって信じて」 言いながら、まつ毛がわずかに震えた。 「それ、私じゃない気がするの。たぶん昔の誰か。ここで迷ってた人」 光の粒が一度だけ強く瞬いた。まるで、その言葉に応えたように。 風が小径を抜け、枝が細い音を立てた。僕は志乃の横顔を見た。夕闇に溶け込みそうで、それでも輪郭だけははっきりしていた。 「でもね」 志乃はそっと袖を引いた。 「その人が誰を待ってたのかより…今の私の方が問題で」 「今の?」 尋ねると、彼女は迷うように視線を揺らした。 「今日ずっと、胸の奥が変で。ここに来たら何か分かるって思ったのに…なにもはっきりしない。でもね」 志乃は僕を見た。 「一緒に歩いてる間だけ、そのざわざわが少し落ち着くの」 言葉の意味を測る前に、胸の奥で何かが静かに浮いた。 光の粒が、僕らの目の高さまで上がった。風もないのに揺れて、やがて力の抜けるようにゆっくり落ちていった。落ち葉に触れる寸前、淡い光が広がり、短い影がふたつ浮かび上がった。さっき見たあの影より、いくらか輪郭が近かった。 志乃は息を呑み、僕の袖を強く握った。 「ねぇ…これって」 影はすぐに崩れ、地面の色に溶けた。何かを示すには曖昧すぎて、でも無関係とも思えなかった。 「もう昔の人の影じゃないんだと思う」 口に出してから、自分で驚いた。 「たぶん、今ここにいる僕らのものだよ」 志乃は目を伏せ、ふっと小さな息をこぼした。 「だったら…いいな」 その声は、ほとんど聞き取れないほど薄かったけれど、確かに届いた。 気づけば光の粒は消えていた。小径には夜の気配が広がり、遠くで風鈴がひとつ鳴ったような気がした。神社の方角だった。 志乃が袖を離し、代わりに僕の手に触れた。 指先はまだ少し冷たかったけれど、その握り方には迷いがなかった。 「ねぇ」 彼女は前を向いたまま言った。 「帰ろっか。なんか…ちゃんと歩けそうな気がする」 僕らは来た道を戻り始めた。落ち葉を踏む音が、行きよりも軽く響く。志乃の手は離れず、歩幅だけが自然にそろっていく。 鳥居の輪郭が見え始めた頃、志乃がぽつりと言った。 「今日の夢、忘れない気がする」 「どんな夢だったの?」 尋ねると、彼女は少し考えてから笑った。 「たぶん…今日の続きみたいなやつ」 夜気が校舎の方から流れ、制服の袖を揺らした。 僕はその風の中で、志乃の手の温度だけを確かに感じていた。 消えた光の残り香が、まだどこかに漂っているような気がした。
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