四月の朝、グラウンドいっぱいに広がる土の匂いが、まだ新しいユニフォームに染みついていく。陽に焼けた背中が並ぶそのなかで、私は、ノートを握りしめて立っていた。 「おい、沙耶。水、こっち頼む!」 声の主は二年のエース、進藤だった。笑うと左の頬にだけ小さくえくぼができる。喉が渇いた、と白球を蹴ってアピールしてくるから、思わず笑ってしまう。 「自分で来たら?」 そう返しながら、水筒を持って近づく。進藤は照れたように首をすくめた。 「今、バッティング順番でさ。…それに、沙耶が持ってきてくれるの、なんか得だし」 それだけ言うと、すぐに視線をグラウンドへ戻した。不器用だな、と私もつられて空を見上げる。雲がゆっくり流れて、グローブの上に影を落とす。春なのに、指先が少し汗ばむ。 正直、まだ練習に慣れていない。ノートに書き留めるべきことも上手くまとめられない。それなのに、みんな当然みたいな顔で頼ってくる。新米マネージャーの私にも、役割があるみたいに。 ——そのうち、話したいことがたくさんできるのかな。 そんなことを思って、走り去る進藤の背中を目で追う。ふと、ユニフォームの背番号「1」がまぶしく揺れた。甲子園を目指している彼らのまっすぐさが、その数字にもにじんでいた。 ページの隅に、何か小さな絵を描いた。そこには、まだ誰にも言えない願いが込められている。ノートの角を折りながら、小さく息を吐いた。今日も、グラウンドには土ぼこりが舞っている。
部室に戻る途中、校舎の陰から吹く風が汗を冷ました。ポケットの中でスマホが震えて、画面にはさっきまで聴いていたファンモンの曲名が残っている。イヤホンを片方だけ耳に戻すと、サビの声が胸の奥で揺れた。 「…また聴いてんの?」 背後から一年のマネ仲間に声をかけられ、思わず笑ってしまう。 「うん。これ聴くと、思い出すから」 あの日、夕暮れの校庭を歩いていたら、外周を走っていた進藤が突然立ち止まった。汗で額を光らせながら、息も整えずに言った。 「沙耶、うちのマネージャー…やってみない?」 理由を聞こうとしても、進藤は目をそらして、手元のスマホをいじった。そこから流れ出したのが、この曲だった。 「なんかさ。こういう感じ、似合いそうじゃん」 彼の言葉は雑なのに、妙に逃げ場がなかった。夕日が強すぎて、進藤の顔がよく見えなくて、返事の代わりに靴の先を蹴ったのを覚えている。 部室の扉に触れると、木の冷たさが指に残った。あのときの気配が、まだここに続いている気がした。 イヤホンを外しながら、小さな息を吸う。今日の練習をノートにどう書こうか、考えがまだまとまらない。 でも――進藤の背番号が揺れて見えた朝より、少しだけ言葉にできそうな気がした。
昼のグラウンドは、砂の匂いよりも草の青さが勝っていた。ベンチ横で給水タンクを抱えていると、進藤がバットを肩に乗せたまま近づいてくる。 「なあ、沙耶。今日、ノート見せてくんない?」 少しだけ眉を上げる癖は、照れてるときのものだと最近わかってきた。 「まだ下書きだよ。変な字とか…あるし」 そう言うと、進藤は喉を鳴らして笑った。 「変でもいいって。沙耶の見たいだけだし」 その言い方があいかわらず雑で、でも逃げ場をなくす。胸のあたりがむずむずして、タンクの取っ手を握る手に力が入った。 「…進藤って、なんでそんなこと言うの?」 思わずこぼれた声に、彼はバットの先で土をつついた。 「別に。気になるから、だよ。沙耶のこと」 真正面から言われたわけじゃないのに、耳の内側が熱くなる。風が吹いて、髪が頬に貼りつくのがわかった。進藤はそれを見たのか、視線をそらして帽子のつばを指で触る。 お互い、はっきり口にしないまま距離だけが揺れている。 マネージャーとエース。友達、とも少し違う。けれど何かになりきるには、まだ足りない。 タンクを置いた瞬間、遠くで監督の声が響いた。進藤は「行くわ」と短く言って駆け出す。砂煙の向こうで、背番号1が陽に揺れた。 ノートの空白を思い浮かべる。書けることが、またひとつ増えた気がした。
そんな日々が続いて、気づけば六月の湿った空気がグラウンドにまとわりついていた。昼休みの終わり、ネットの影でボール拾いをしていると、進藤が汗のにじんだ帽子を指先で押し上げる。 「沙耶、最近…寝てる?」 急に言われて、拾ったボールを落としそうになる。 「え、寝てるよ。なんで?」 進藤は返事を待たず、私のノートをちらりとのぞき込む。 「字が前より細かい。…無理すんなよ」 素っ気ないのに、声の奥にひっかかるものがあった。彼はバットのグリップを握り直し、視線を足元へ落とす。 「大会、すぐだろ。…沙耶が倒れたら困るし」 その“困る”の意味を問い返せなくて、喉が詰まる。胸の奥がじわりと騒いで、指先に汗がたまった。 「大丈夫だって。みんなの顔、覚えたいだけ」 そう言うと、進藤は軽く鼻を鳴らす。 「真面目すぎ。…でも、そういうとこ、好きだけどな」 最後のほうが聞き取りづらくて、思わず耳を触ってしまう。進藤は「あ、いや…」と帽子のつばを深く下げた。 そのまま監督に呼ばれて走っていく背中を見つめる。背番号1の白が、曇り空の下でもはっきり揺れていた。 ノートを胸に抱えると、紙が体温で少し湿っていた。 このまま大会まで、どれくらい彼と言葉を交わせるんだろう。 そんな予感が、ページの余白をゆっくり満たしていった。
午後の蒸した風が、ネットの端をふくらませていた。マウンドではピッチング練習が続いていて、私はボールケースの影で投球数を数えていた。 「次、ラストいくぞー!」 捕手の声が響いた瞬間、乾いた音がずれた。続いて、土をえぐるような鈍い衝撃音。 視線を上げると、進藤がバランスを崩して膝をついていた。 「え、進藤…?」 声が裏返る。彼は立ち上がろうとして、右足に触れた指先を固くしていた。 「…ちょい、やったかも。ひねったっぽい」 無理に笑おうとするけれど、眉の形が歪んでいる。 足元に舞った砂が、湿気を含んで重く感じた。胸の奥で息が詰まり、数字を書いていた手が止まる。 「動かさないで。誰か呼んでくるから…!」 そう言ったのに、進藤は首を振った。 「大げさだって。ほら、すぐ治…」 言いかけて顔を歪めた。拳が土を軽く叩く。 「…くそ。大会前なのに」 その一言が、グラウンドの空気を鋭く変えた。遠くで部員の足音が近づき、影がいくつも落ちていく。私は進藤の横にしゃがみこむしかできない。 「病院、行こ。ね?」 声が震えないようにしたけれど、指先は汗でじっとりしていた。 進藤は一度だけ視線を上げた。頼りない笑顔だった。 「…悪ぃ。沙耶に、こんな顔見せたくなかったのに」 その言葉が耳に残ったまま、救護室へ向かう足音だけがグラウンドに吸い込まれていった。 ノートは開いたまま、風で少しめくれた。 書くはずだった数字の続きが、白い余白の中で揺れていた。
救護室の白い匂いが、湿った六月の空気を押し返していた。ベッドに座る進藤は、右足を少し浮かせたまま動かない。包帯の上から触れられたくないものを守っているように見えた。 「…思ったより、ひどいってさ」 ぽつりと落ちた声は、彼らしくなかった。 「大会、無理かも」 私は返事ができず、指先が膝の上でまとまらない。カーテン越しの気配が静かすぎて、息を吸うたび胸がきしむ。 「痛いの?」 やっと出た声は、思ったより細かった。 進藤は肩をすくめ、視線を窓の外へそらす。 「まあ…ちょっとな。でも、それより……迷惑かけんのが嫌でさ」 その言葉に、喉の奥が熱くなる。迷惑なんて思ったこと、一度もないのに。 「迷惑じゃないよ」 言い切ると、彼はゆっくりこっちを向いた。 「沙耶、変だよ。そんな顔してさ」 苦笑しながら言うけど、彼の指も震えていた。 私は近くの椅子を引き寄せ、進藤の足には触れない距離に腰を下ろした。 「…痛いときくらい、誰かに頼ってよ。私でいいから」 言った瞬間、心臓の音が一気に速くなる。彼は目を細めて、少しだけ息をついた。 「頼るの…下手なんだよ、俺」 沈黙が落ちた。窓の外で風が枝を揺らし、それが救護室の壁に微かに影を映した。 「大会、どうなるんだろ」 つぶやくような声に、私は答えを持っていなかった。ただ、ノートを抱きしめる手が汗ばんでいく。 それでも進藤の横顔を見ていると、胸の奥に小さな言葉が浮かぶ。 まだ終わりじゃない。終わらせたくない。 その想いだけが、静かな部屋の中で息をしていた。
放課後の廊下は、人の気配が薄くて少し冷えていた。救護室の前で深呼吸すると、胸の奥がゆっくり縮んだ。ドアを開けると、進藤はベッドの端で足をぶら下げたまま、包帯を見つめていた。 「来たのか」 声は乾いていた。でも、目だけが少し動いた。 「…様子、見にきただけ」 そう言いながら近づくと、彼は帽子のない頭をかいた。 「練習、どうだった?」 投げるように聞く声が、どこか落ち着かない。 「みんな、頑張ってたよ。進藤の話もしてた」 彼のまつげがわずかに揺れた。 「悪ぃ。置いてかれてる感じ、してさ」 言いながら指先が布団の端をいじる。その動きが、普段より小さくて胸がざわつく。 「置いてくなんて、ないよ」 返した途端、彼は一度だけ息を吸い込んだ。 「沙耶の声、変だな。泣きそうじゃん」 「泣いてない」 反射的に言うと、進藤はほんの少し口元をゆるめた。 沈黙が落ちる。窓の外から、部活帰りの笑い声が遠く聞こえた。 「なあ、明日も来ていい?」 進藤が視線を落としたまま言った。 「ひとりでいると、余計いろいろ考える」 その言葉が、そっと胸に触れた気がした。 「行くよ。…行きたいし」 進藤は包帯を見つめたまま、小さくうなずいた。 その横顔が、少しだけ前より弱く、少しだけ近く感じた。 廊下に出ると、夕方の風が肌に触れた。 明日、どんな顔で彼が待っているんだろう。 そのことだけが、ゆっくりと歩く足を温かくした。
救護室の窓が開け放たれていて、夕方の風がゆるく入り込んでいた。包帯の白だけが薄暗い部屋で浮いて見える。 「遅かったな」 進藤はベッドの縁に座り、靴下のつま先で床をつついていた。 「先生に止められてて…ごめん」 言うと、彼は「別に」と答えたけれど、声の端がかすかに揺れた。 「今日、練習どうだった?」 同じ質問なのに、昨日より少しだけ弱い。 「みんな、進藤の回復待ってるよ」 そう言うと、彼は眉を寄せて、包帯の上に手を置いた。 「戻れんのかな。…沙耶、さ。俺がもしダメでも…嫌いになんなよ」 冗談っぽく言うのに、笑っていなかった。 胸の奥が跳ねて、言葉が見つからない。代わりに、ノートを抱えた腕が勝手に近づいた。 「ならないよ。そんなの、なるわけない」 声がかすれて、自分でも驚く。 進藤はゆっくり顔を上げた。 「近いって…」 言いながらも、後ろへ下がらなかった。指先が少しだけ私の袖に触れた。 その一瞬の重さに、呼吸が浅くなる。 「沙耶が来るとさ、変なんだよ。痛いの、ちょっと忘れんの」 照れ隠しみたいに視線をそらす。その横顔を見ていると、胸の奥で言葉にならない何かがひっそり広がった。 窓の外で風が枝を揺らす。 袖に触れた彼の指が、離れそうで離れなかった。 明日、もう一歩だけ近づける気がした。
夜の校舎は、昼より音が少なかった。明日が大会だと思うだけで、胸の奥がざわつく。救護室の前で手を握り直すと、指先に汗がにじんだ。 ドアを開けると、進藤は窓にもたれたまま外を見ていた。いつもより背中が細く見える。 「…来たんだ」 振り返った声は低くて、少し乾いていた。 「明日、どうするの…?」 聞いた途端、言葉が空気の中で重くなった。進藤は包帯の端をいじりながら、小さく息を吐く。 「投げねえよ。無理だってわかってる」 その言い方は、強がりというより、どこか諦めの形に似ていた。 「でもさ…ベンチには行く。逃げたくねえし」 私は一歩近づく。床がわずかにきしんだ。 「進藤がそこにいるだけで、みんな違うと思う」 言うと、彼は目を伏せたまま、肩を震わせるように笑った。 「お前、時々ずるいよな。そんなこと言われたら…弱くなる」 そう言いながら、袖を軽くつまんだ。触れられた場所がじんと熱くなる。 「沙耶。明日さ…終わったら、ちょっと残れよ」 顔を上げた進藤の目が、迷ってるみたいで、決めてるみたいで、どっちにも見えた。 「言いたいこと、あんだ」 返事をしようとして喉が動かない。代わりに、うなずいた。ほんの少しだけ。 風が窓から入り、包帯の白を揺らす。 明日、この距離がどう変わるんだろう。 そのことだけが、帰り道の足を止めそうだった。
大会の終わったグラウンドには、夕方の風が残っていた。歓声の余韻がまだ空気に貼りついていて、土は踏まれすぎて少し柔らかい。部員たちが片づけをしているのを遠くに見ながら、私はバックネット裏でノートを抱えて立っていた。 「…来いよ」 進藤の声が、フェンス越しに落ちてきた。振り向くと、右足をかばいながらもまっすぐ立っていた。包帯は薄汚れていたけれど、顔はどこか晴れていた。 「思ったより元気じゃん」 近づいて言うと、彼は帽子を指で回しながら鼻を鳴らした。 「元気じゃねえよ。痛ぇし。…でも、負けたのになんかスッキリしてる」 試合は接戦で、最後まで粘ったけど逆転できなかった。それでも、ベンチの端で声を枯らす進藤の姿が、ずっと目に残っていた。 「沙耶さ」 進藤が少しだけ距離を詰めてきた。靴先が、土を押して小さく沈む。 「昨日言ったやつ…今、言っていい?」 心臓が一瞬止まったみたいになって、ノートの角を握りしめる。 「…うん」 進藤は深く息を吸い、目をそらさなくなった。 「俺、明日からリハビリ行くって決めた。ちゃんと治す。逃げんのやめようと思ってさ」 その言葉だけで、胸の奥がきゅっと縮んだ。 「それだけじゃなくて…」 進藤は帽子を握り直した。手の甲に土がついている。 「沙耶が毎日来てくれんの、ずっと嬉しかった。痛いの消えるとかじゃないけど…なんか、戻れんだって思えた」 息がうまく吸えなくなる。夕焼けが彼の背中を濃く染め、包帯の白が少しだけ光った。 「俺、さ」 声がかすれて、進藤は少し笑った。 「沙耶のこと、ずっと…気になってた。変に言って逃げてきたけど、ちゃんと言う」 喉の奥が熱くなった。泣きそうだと思った瞬間、進藤がそっと袖を引いた。 「泣くなよ。俺、うまく言えねーけど…これだけは言っときたいから」 私は首を振った。涙じゃなくて、息がこぼれる。 「泣いてない…でも、聞いてる」 進藤は一度まばたきして、まっすぐ言った。 「好きだよ。沙耶」 時間がゆっくり降ってくるみたいで、風の音が遠くなった。 返事を探すほどの言葉は持っていなくて、気づけばノートを胸に押し当てていた。ページの端が指に食い込む。 「…私も」 絞り出すように言うと、進藤の肩が少し下りた。 「そっか」 照れたみたいに笑う。えくぼが、夕日で淡く揺れた。 「ねえ」 言葉が自然に出た。 「明日からも…進藤がどんな日でも、ここに書くよ。全部」 ノートを見せると、進藤は目を細めた。 「じゃあ俺も…隣にいるわ。治るまでとかじゃなくて、ずっと」 風がグラウンドの土を巻き上げ、二人の足元へさらりと集まった。背番号1のユニフォームが物干し竿から揺れて、夕暮れの空に溶けていく。 夏の匂いが、少しだけ近づいていた。
採用ヒントはありません。