梅雨を引きずった六月の午後、校庭の隅をかすめる風が湿った制服の袖をくすぐった。空には白い雲がしがみついていて、陽射しは気まぐれに姿を現す。ひと気のない図書室の奥、足音が反響するフローリングの静けさで息を潜めて、私は机にひじをついていた。 「灯里、また補講?」 思いがけず聞きなれた低い声で、心臓が内側から何かを叩いた。見上げると、英語教師の鈴木先生は窓から差し込む光に輪郭を溶かされていた。三十代半ば、爽やかさとは少し違う、疲れの混じった笑顔。目尻の皺が、かえって子どもみたいで、なんとなく私は視線を落とす。 「うん...ノート見直してたの。先生も、またいるんだ」 「居残り好きなんだよ。家に早く帰ると、妻がうるさいから」 冗談混じりの声。鈴木先生は本棚に背を預け、本を摘む。結婚指輪が、ちらりと光った。私は指先でページの角をいじる。質問したいことが喉まで出て、それでも何も出てこない。 「…先生、これ、今度の課題の参考になりそう?」 ページの隅に書いた一文を、差し出す。彼は私のノートをのぞきこみ、「すごいじゃん」と笑った。むせ返る夏の匂いと、冷たいエアコンの風。そこに、ふたりきりの温度だけが浮いているような気がした。 「……ねえ、灯里。あのさ」 彼が何かを言いかけた時、廊下の戸がきしむ音がして、私たちは同時にそちらを向いた。 静けさに、小さな雨粒がテーブルを打つ音。私のノートの余白に、ぽつんと伏線めいた一滴が落ちた。
廊下の音が消え、また静けさだけが波のように戻ってきた。私はテーブルの上に滲みはじめた雨粒を見つめていた。鈴木先生は一歩だけ近づき、私の横にかがむ。制服の肩が、先生の腕とほんの少しだけ触れそうになる。 「ノート、濡れちゃうな」 先生がふとそうつぶやき、指先で私のノートをそっと引き寄せる。私はその手元を見てしまい、呼吸が細くなった。人差し指に銀色の輪がはまっている。その指で、ページの端を一枚めくる。 「灯里、質問あるなら今言って。いま誰も来なさそうだからさ」 からかうでも冷やかすでもなく、ごく普通に。でも、その声音がやけに親密に聞こえる。私は喉の奥がつまったまま、力が抜けていく感じがした。 「えっと……この単語、どうやって使うの?」 たどたどしくメモを書き、差し出すと、先生は私の手ごとノートを包むように持った。掌の熱が、そこだけ夏みたいに感じる。 「こうやって、使うんだよ」 説明の声を聞いているふりをしながら、私は自分の手を先生の手の中に置いたままでいる。その重なりがどんな関係なのかを、言えなくて、でも少しだけ期待してしまう。 説明が終わる頃、雨音がさらに大きくなった。私たちはどちらからともなく窓の向こうを見た。その間に、そっと先生の手が離れる。私は息をついた。見つめ合うことはなかったのに、不思議と何かを聞かれた気がした。 「…今日は、長くいそうだな、雨」 先生の声にわずかな諦めが混じる。その響きに、自分だけが知ってしまった秘密の体温が、静かに胸を満たしていくようだった。
窓の外は細かい雨がとめどなく落ちて、ガラス越しに町並みの色がぼやけている。図書室の時計は放課後の時を静かに刻んでいるけど、今だけは何も動いていないみたいだった。 「先生、帰らなくて平気なの?」 わざと少しだけ大きな声で聞いた。教室でよりも低くてやわらかい声。先生は少し眉を上げて、首をかしげた。 「平気じゃないかもなあ。でも、灯里が残るなら付き合うよ」 冗談みたいな口ぶり。でもその言葉が、雨の湿り気よりも強く、胸に張り付いた。私は息を吸い込んで、机の端を指でポンと叩く。 「じゃあ、先生の話も聞かせて。先生が高校生だった頃のこととか、知りたいな」 先生が少しだけ目をそらして考える。指輪をはめた手が本をいじっている。その仕草を見るのがなんだか悔しくて、「ねえ」ともう一度押した。 「…意外だな、灯里。そういうこと聞くんだ」 「意外かな。私、先生のこと、もっと知りたいし」 知られるのが怖いのは私のほうなのに、それでも今は、雨音に背中を押されてしまう。先生は小さく笑った。 「昔はね、もっと不器用だったよ。今よりずっと」 間をおいて、先生の横顔を見つめる。そこに、遠い夏の匂いが混じっている気がした。 「じゃあ、不器用なままでいてほしい」 私の言葉に、先生は答えない。沈黙の中で、お互いの心音だけが確かに流れていた。
先生の目線がぴくりと揺れた。一瞬だけ戸惑った気配。それでも私は引かなかった。机越しに身を乗り出してみる。制服の裾が椅子の背にひかかった音がやけに大きく響いた。 「ねえ、先生のこと——教えてよ。ちゃんと」 自分でも、強がっているのがわかる。それでも、そうしないと踏み出せなかった。先生はぽつりと息を吐き、「何を教えてほしいの?」と小声で返す。雨音に紛れて聞き逃しそうなほど。でも、たしかに私の方に顔を向けてる。 私の手が、無意識に机の端を探していた。湿った空気に、掌がひやりとする。 「先生って、普段なに考えてるの? 私のこと、どう思ってる?」 本当はだめだと知りながら、聞かずにはいられなかった。鈴木先生はわずかに困ったような笑いで視線を泳がせる。 「灯里は、…生徒だよ。だけど、気になるのは本当」 その言葉が、五感の奥まで沁みる。私は息を呑み、テーブルの上のノートをぎゅっと握る。先生の指が、ふいにページをなぞった。 「宿題はちゃんと見るからさ。…それだけは約束する」 大人ぶった逃げ方。でも、私の方も簡単には終わらせない。「じゃあ、また明日も聞くから」と言うと、先生の指輪がきらりと揺れた。雨はまだ降り止む気配を見せない。その音のむこうで、次はどんな言葉が聞けるのかと、期待と不安が交じりながら私の胸を占めていた。
濡れた空気が窓の隙間から忍び込んで、髪の根元がじっとりしていた。私は今日も、先生の前に座っている。最初の緊張が嘘みたいに薄れて、でも体の奥だけは以前よりざわついていた。 「先生、昨日の課題、やってきた」 少しだけ自信がある。ノートを差し出しながら先生の手を見る。指輪が、相変わらず意地悪なほどきれいだ。 「見せて」先生の声は変わらない。でも、私の視線には気づいているのか、わざとページだけを見るふりをする。 机の端に肘をつく先生の指を、私はいつか掴んでしまうかもしれない。そんな予感が脈打つ。気持ちが膨らむのを、止められなかった。 「先生さ、ほんとに、私のこと生徒だってしか思えない?」 思いつきのような言葉が、唇から零れた。それと同時に、息を飲む音が互いに重なる。少し睨むみたいに先生を見上げると、彼の眉がわずかに動いた。 「……どうなんだろうな」 正面を向いたまま、先生は答えない。ページをめくる音が場を誤魔化す。その沈黙が耐えきれなくて、私は体ごと寄ってしまう。 「先生。私、もう一回だけ言う。ずるいよ」 自分でも、どこまで攻めるのか怖くなる。でも、留まってなんかいられない。「私もっと先生と…」言い切れずに言葉が詰まる。視界のどこかで彼の指先が、小さく震えていた。 それでも、私の熱は止まらない。きっと明日も、その先も。先生が何も言わないまま視線を落としたとき、小さな雨粒がまたひとつ、テーブルに落ちてはじけた。
翌日の放課後、図書室には梅雨の名残の湿気がからみついて、空気がぬるい。私がいつもの席でノートを開くと、すぐ背後で「灯里」と静かな声がした。振り返ると、鈴木先生は手に持ったノートを小さく掲げる。 「昨日の。返す」 渡してきたそれを受け取る指先が、どこかぎこちなかった。私は意地悪い気持ちを抑えて、そっとページをめくる。端に小さな字で、『考えすぎなくていい』とあった。先生らしい、でも少し弱い字。 思わず顔を上げると、彼は窓辺に視線を逃がしていた。外の雨音が、ざらついた不安を隠すように響いていた。 「先生、答えてないよ。私、ずっと…」喉がつかえて、続きが言えない。 先生はため息にも似た息を吐き、指輪をそっと親指でなぞる。しばらく沈黙が過ぎ、やがて諦めたように、机の端に身体を預けた。 「灯里を嫌いになんかなれない。それだけは…たぶん…本当だよ」 消え入りそうな声だった。私の胸が苦しくなる。けど、今だけは逃げたくなかった。 「先生、じゃあ、少しだけでいいから…私のこと、大事だと思ってほしい」 机越しに差し出した手に、先生の指がそっと重なる。手汗でじっとりした互いの指先。誰にも見られないこの空間で、わずかに肩が震えた。 「…もう止められないかもしれないな」 彼の唇が微かに歪む。雨の音が強くなる中で、ふたりの距離は何かを踏み越えてしまった。その確信が、私を静かに熱くした。 窓の向こうでうっすらと陽が差した気配がして、私はその一瞬に気を逸らした。けれど、重なった手は確かに離れなかった。
先生の手は、すぐに離れなかった。指先が余計な力も抜けきらず、私の掌にぎこちなく留まっている。細い汗が手のひらに滲んで、息が浅くなる。図書室の扉の向こう、誰かの足音が遠く通り過ぎたような気がした。 「…ほんとに、後悔しない?」 鈴木先生の声は、いつもより少し低かった。問いかけというより、独り言みたいな弱さが混じっていた。それでも、私はうなずかずにはいられなかった。 「私、先生が思うより、全部分かってるつもり」 声が微かに震える。けど、下を向きたくなくて、無理やり視線を合わせた。先生の顔は、いつかよりも疲れて見える。でも、私の手だけは放そうとしなかった。 沈黙が痛いくらい続く。私は思い切って机越しに身を乗り出す。制服の袖が先生の腕にかすめた。思いがけず、体の奥で電流が走るような感覚が広がる。 「…ここで、こうしてたら…もう戻れないよ」 先生の言葉が胸の奥を叩いた。でも、その言い訳に、私は小さく笑ってしまう。涙で揺れた視界の中、先生の指輪が銀色に滲んだ。 「大丈夫。私、止めたくないから」 静かに、けれど迷いなく。先生の手にもう一度、指を絡め直す。その瞬間、どこかで椅子の軋む音がした気がして、ふたり同時に息をのんだ。けれど離れなかった。図書室の外で夕暮れの光が薄く帯を引く。 外ではまだ雨が続いている。その音が、ふたりだけの世界を優しく包んでいた。
その日、図書室の静けさが突然破られた。ドアが控えめに開いて、鈴木先生が慌てて手をほどく。私は一瞬硬直し、指先に残る先生の温度だけがやけに鮮明だった。 「…失礼します」入ってきたのは、教頭先生。眼鏡のレンズ越しに私たちをじっと見据える。どこか違和感を読み取ったのか、わずかに眉をしかめた。「鈴木先生、少しお時間をいただけますか?」 鈴木先生は平静を装うために無理に笑みを作る。「はい。灯里、宿題の答えは来週でいいから——」 「はい」私は即答し、ノートを閉じ、机の下で震える膝をぎゅっと抱えた。先生と教頭先生は廊下に消えたが、扉の隙間からこぼれる声は聞こえなかった。ただ、心臓の鼓動が耳の奥を叩いていた。 しばらくして、先生が小さく息をついて戻ってきた。その顔はさっきよりずっと蒼白で、目の奥に重たい影を落としていた。 「…灯里、ごめん、今日はこれで…」 そのまま鞄も持たずに踵を返そうとする。私は無意識に、その袖口を掴む。「どうしたの?」 教頭から何か——と喉まで出かかった。けれど先生は、ゆっくり私の手を振りほどいて、初めて見るほど弱い目でこう言った。 「…今度、全部話す。約束するから」 声が小さく滲んでいた。先生が図書室を出ていく足音と、窓の外で雨脚が急に強まる音。そのふたつが、私の胸の中で絡み合った。予想もしなかった“何か”が、目前まで迫っている気がしてならなかった。
図書室の天井を見上げる。ずっと雨の音しか聞こえない静けさの中、私はひとり、ページをめくるふりをしていた。教頭先生が去ったあとの気配は、まだ机や椅子の隙間に漂っている気がして、肌の内側が妙にざらつく。 ノートの端に手を置けば、微かに先生の残り香がするような錯覚さえあった。さっきまであんなに近くにいたのに、ほんの瞬間で、取り残されたみたいな切れ味が胸のあたりをかき回す。先生の「全部話す」という声が、何度も耳の奥で反復される。 扉の方をそっと見る。でも、誰も戻ってはこない。呼吸が浅くなり、制服の胸元にじんわり汗が滲んだ。 「灯里」 背後、図書室の奥から紡がれた声。驚いて振り返ると、先生が深く息を吐きながら戻ってきていた。目の下にはいつもより色濃い影。けれど、視線だけはまっすぐ私を射抜いている。 「…やっぱり、逃げないんだな」 苦笑いとも言えない顔で、先生は私のすぐ前にしゃがんだ。机越しじゃない。これまで一度もなかった距離。心臓が跳ね、まるで耳元で叫ばれたみたいに鼓動が早まった。 「全部は、今は無理かもしれない。でも、ひとつだけ言いたい」 先生の手がノートの端をそっと押さえる。「僕は——灯里といられる時間が、ほんとうに大事だと思ってる」 声は震えていた。でも決して逃げようとはしていない。視線が重なり、私の指先が机の裏で硬くなる。何があろうと、一度灯った炎は、もう戻せない。たとえ、世界が敵になっても。 先生の唇がわずかに動く。「それでも、ついてきてほしい」 私の喉もとが熱くなる。うなずきたい衝動が、体じゅうを支配していた。窓外の雨音が、ふたりの沈黙をやわらかく抱いていた。
雨が、透明な線で窓を叩いている。図書室の奥、埃っぽい本棚が影を細く引く中、私はじっと先生の言葉を待っていた。肌のどこかに、まだ先生の手の重みが残っている気がする。怖いのか、期待なのか——ともかく、ここまで来てしまった。 「…灯里」 先生の声が、空気を優しく裂いた。私が机の端を握ると、それを真似るみたいに先生も手を置いた。二人の指が、わずかに離れて並ぶ。 「本当は…もっと子ども扱いしてればよかったのかもしれない」 ぽつりと漏れる。先生の横顔は、いつもより幼く見えた。私は唇を噛む。それでも、引き戻る勇気なんて、もうない。 「大事なものほど、隠したくなるんだね」 心の奥に、ゆっくりと灯が灯るみたいだった。私は、怖くても手を出さずにいられない。 「先生が、ずるいくらい好きなんだと思う。それだけは、誰にも渡したくない」 指が震えた。先生の手も、小さく揺れる。その薬指——指輪は、冷たい銀色で、でも泣いているような光を放っていた。 「全部を奪えないし、全部をあげられない。でも…いま、こうやってここでいることだけは、嘘じゃない」 先生は、そう言い切ったあと、ふと私をじっと見た。その眼差しは、やさしさより苦しさが勝っていたかもしれない。でも、私は目を逸らさなかった。 「…ごめんね、灯里。大人って、ほんとに怖いくらいずるい」 私は首を振る。「知らないふりなんて、もうできないよ」 静かな沈黙。外の雨音が、逆に室内の静寂を膨らませていく。 「これから、どうするかは…私も、先生も、選ばないといけないんだと思う」 声は震えていたけれど、噛みしめればひとつの覚悟に変わった。そしてふたりの間に、おだやかな諦めと、それでも消えない光が宿る。 「ねえ先生、春になったら、またここで話してくれる?」 私がそっと笑うと、先生は少し驚いた顔で頷いた。形だけでも、あの時差し込んだ陽射しのような約束になる。 「うん。春も、その先も。灯里が望むなら」 外を見る。雨はまだ止まない。でも、その奥に霞んだ青空があるような気がしていた。本棚の隙間から、薄い光がひとすじ差し込む。机の上のノートに、あの日とおなじように、小さな水滴がぽつりと落ちて輪を広げていた。 どうしようもなく叶わないもの。けれど、それでも伸ばした手だけは、決して無駄じゃないと叫ぶために。 そっと、私は先生の隣で息を吸った。春の気配が遠くで滲んでいる。それだけを信じて——私は今日を終えた。
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