午後六時の新宿は、ビルの隙間を埋めるように人と光が流れていた。コーヒーの紙カップを指でなぞりながら、亜季は改札の横のベンチに座っていた。仕上がらない企画書のことや、朝から微妙にずれた左の靴下の感触が気になったが、夕暮れと雑踏がそれらを曖昧にしてくれる。この都会に引っ越してきて八年、誰かに偶然出会うことなんて、もはや神話のように思えた。 誰かが小さく咳払いをした。視線を上げて、亜季は一瞬呼吸を忘れた。十年ぶりの顔だった。長いまつげの下、目元にだけあの頃の面影が残っている。啓太。彼はこちらをじっと見て、それから気まずそうに手持ち無沙汰な笑みを浮かべた。スーツの襟元には、春先にしか見かけない薄緑色のバッジがついている。 「…亜季、久しぶりだな」 無意識にカップを持つ指に力が入った。こんな寒い日に偶然なんて、本当にあるのだろうか。啓太の声は、あの日最後に聞いた声よりも低くなっていて、少しだけ掠れていた。彼は僕の前に立ったまま、何か言いかけて唇を閉じる。 周囲の人波は何も知らないふりで、絶えず入れ替わっていく。遠くで電車のベルが鳴った。亜季は啓太の肩越しに空を見上げる。うっすらと青が残り、今日だけは雨は降らなさそうだ。啓太の手には一冊の文庫本。表紙には、亜季が高校時代に薦めた作家の名前が見えた。 「なんで、こんなところで」 口をついて出た声は思いのほか小さかった。啓太が、ほんのわずかに眉を動かす。――この再会が、何を変えるのかはまだ分からない。ただ、いつもより季節のにおいが濃く感じられた。
十年前の春の風も、今日と同じようにすこし温度を持っていた。駅前の坂道に、小さな影が二つ伸びていた。亜季はランドセルの肩紐を直しながら、膝下にまとわりつく泥の跳ねを気にして歩いた。啓太はその数歩先、無言で空き缶を蹴りながら進む。 「なあ、あれ、やってみない?」啓太がふいに振り返る。空き地のフェンスには、ピンク色の花がところどころ咲いていた。彼が何を考えているか、昔も今も分からないことがある。けれど、彼の声の高さや間の取り方を、亜季はなぜか今でも身体が覚えている。 「ダメだよ。先生に怒られる」ランドセルを前に抱え、視線を外す。啓太は、方針を変えることなく、すこしだけ口角を上げた。 「じゃあ、今度な」さらりと答えて坂を下っていく。背中に春の光が映って、一本線のように白い。 あの日から何度その道を歩いても、啓太の「今度」に続きはなかった。別々の中学、別々の毎日。何も終わっていないのに、終わったふりが空気より重く流れた記憶がある。 ベンチの固さが指先に戻り、亜季は軽く息を吸った。目の前の啓太は十年前より少しだけ背が伸びて、持つ文庫本も厚い。今度、って。あの時の「今度」はもう失くしたと思っていた。 声を出せば、過去がこぼれそうで。だから、亜季は呼吸だけ確かめた。駅ナカのスピーカーから、次の電車の到着を告げる音が優しく響いていた。
空調の風が足下にまとわりつき、ベンチの冷たさがふくらはぎまで伝わっている。亜季の手の中でカップのコーヒーは、もうほとんど温度を失っていた。啓太は立っていることに落ち着かなさを覚えたのか、隣に腰を下ろす。沈黙は、ふたりの間に置かれた薄いガラスのようだ。 「この駅、通勤で使ってるんだ」啓太が言う。視線は前に向いたまま、声だけこちらに。亜季は頷いたが、それが言葉として伝わったか分からない。 「偶然だね」ほとんどため息みたいに呟いた。ふたりともごく自然に同じ駅へと導かれる歳月なんて、考えてみればとても奇妙だった。 「...それ、まだ読んでたんだ」亜季が指先で文庫本を示す。啓太は少しだけ顔をほころばせて本を軽く振った。 「最近また、図書館で見かけたら、急に読みたくなって」彼の声に、昔好きだったものを思い出すときの柔らかさが混じっていた。 改札の脇で女の子が小さな声で電話している。どこか懐かしい、都会のざらついた空気の隙間で、昔の光景が重なる気がした。亜季は自分の膝を指先で押し、言葉を探す。 「...春、早いね」誰かと並ぶ体温の記憶が、少しだけ現実に寄ってきた。 啓太は黙って笑った。会話の続きを、ふたりどちらも簡単には見つけられない。その沈黙の奥に、小さな「今度」がまた転がっているような気がした。
新宿の駅の構内。スーツの人波が線のように切れ目なく流れていく。ふたりはベンチの端に、それぞれまっすぐに座っていた。亜季は手の中のカップの重さを確かめて、もう一度だけ啓太の指先を見る。彼の親指が、文庫本の角を無意識に撫でていた。緊張と懐かしさの割合を、何度も胸の中で測ってみる。 「ちっとも変わってないなって、思った」と啓太の声。隣を向くより少しだけ遅いタイミングで、目が合う。 「そっちこそ。...でも、そのバッジは初めて見る」カップの縁を口につけ、コーヒーの香りだけを吸いこむ。バッジの話題に啓太が指を止めた。 「会社、変わったんだ。去年。通勤だるいけど、ここに寄れるのは気楽で」言いながら、かすかに眉を下げる。 亜季はコートの袖を引いて、肩まで包み込む。「引っ越したばっかり?」「いや、もう半年。部屋も狭いし、眺めもぜんぜんだけど...線路の音で寝つきがよくて」 会話はぎこちないのに、なぜか互いの心のかすかな変化にすぐ気づけるように思えた。沈黙の谷間で、啓太の喉が小さく鳴る。遠くから咳払いが混じり、亜季もつられて指先を握りしめた。 誰かが走り去る音。ふたりは同時にそちらへ視線を送ってしまい、思わず小さく笑みをこぼす。光がふたりを斜めに切って、どこかで昔と今が交差している気がした。
駅の喧騒が一瞬やわらぐ。亜季は小さく息を吐いて、隣の啓太に視線を預けた。彼は指先で本のページをめくるふりをしながら、何かを言いかけてやめる。コーヒーの酸味が舌に残る。せっかくの再会なのに、会話は糸がほつれるようによそよそしい。 「待ち合わせ?」啓太が、遠慮がちに訊ねた。駅の柱時計をちらりと見る。 亜季は返事を遅らせた。コートの袖の内側に指をすべらせて、膝の上のスマートフォンを軽く握る。画面には、五分前に彼氏から届いた「もうすぐ着くよ」の通知。胸の奥がつかえる。嘘をつくほどには、啓太と距離がない。けれど、何も言わないほどには自分を偽れない。 「うん、彼氏が、こっち来るって」苦く笑ったつもりが、思ったより声が明るい。昼間の残り香が、髪にまとわりついている気がした。 啓太が少しだけ口を開いて、それから視線を落とす。一瞬、透明な仕切りがふたりのあいだにできる。ホームから釣り鐘みたいなベルの音がして、亜季の膝にも振動が伝わる。 「そっか」彼は笑う。その表情は、強がるようにも見えて、ただ静かなだけにも見えた。沈黙の中で、亜季は彼氏への未練や、隣の誰かへの後悔といった単純な感情ではない、もっとぼやけた何かが胸を流れていくのを感じる。 啓太の足もとに、細い光が一筋落ちている。誰かの名前を小さくつぶやいてしまいそうになって、亜季は瞼を閉じた。その瞬間、ふいに携帯が震えた。
軽い振動が手のひらをくすぐる。慣れた通知音が現実を引き寄せてきた。亜季は画面を覗き込む。そこには「急用で行けなくなった、ごめん」とだけ打たれていた。短い文の奥に、言葉を選ぶ余裕さえなかった彼の慌ただしさが浮かんでしまう。 息を吐いて、胸の中で何かが一枚すっと剥がれ落ちた。啓太は隣で、何も訊ねず、ただ足下の光を追っている。コーヒーの冷たさに、指先がじわじわ染まる。しばらく画面を見つめたまま、亜季は自分の表情をうまく管理できない気がした。 「来られなくなったみたい」無理に明るい声を装おうとしたが、言葉の端にかすかなざらつきが混じる。啓太がゆっくり顔を上げた。光が彼の頬の骨を細く照らしている。 「そっか…また、今度だな」彼が言う。「…昔から、そうだよな」 過去なのか現在なのか分からない「今度」という言葉が、静かにホームに溶けていく。 二人の間にあった仕切りが、ほんの少しだけ、ゆるむような気がした。外では誰かが笑い、スーツ姿の人がシャツの袖を整えている。都会の春は、見えない継ぎ目から淡い匂いだけを送り続ける。 啓太が、手の中の文庫本を閉じた。その厚みが、今は少しだけ心強そうに見えた。「ちょっと歩かない?」彼が控えめに尋ねる。亜季は答えず、カップの中身を確かめる。わずかに残った液体に、天井の蛍光灯が揺れていた。 立ち上がると足に重さが戻る。次の行き先を告げるアナウンスが遠くで割れた。亜季は啓太の横顔をそっと確かめながら、歩みだす自分の姿を想像してみる。
自動ドアの向こうに出ると、昼下がりの風が首筋をなでていった。巨大な駅ビルの影が、アスファルトに帯のように伸びている。啓太は一歩先を歩き、時折振り返るたび、昔のままの横顔が近づいてくる気がした。 信号待ちのあいだ、亜季は視線を歩道の端に落とした。十年前、ふたりで坂道の縁石を延々とバランスをとって歩いた記憶が、不意に指先の感触を伴って蘇る。不揃いなコンクリートの感触や、ランドセルの脇に絡んだ春の匂い。啓太は、あの時も少し前を歩いていた。 「覚えてる? この通り」彼が急に問いかける。信号の色が青へと変わる。口ごもるように、でもどこか照れた響きで。 「うん、たぶん...昔とほとんど変わってないね」亜季は答える。歩道の片側には、背の低い桜がまだ固い蕾をつけている。遠くからタクシーのクラクションが割り込む。 「小さいときは、全部すごく広く見えたのに」啓太は鼻先をかすかに上げて笑った。その声に、亜季の中に冷たいまま沈んでいた何かが、僅かにほどけていく気がした。 足音が二つ、微妙なズレで並ぶ。「これ、ほんとは公園まで歩いたことなかったと思う」啓太が言う。「…あの時、途中で引き返しただろ?」 「うん。でも今なら行ける気がするな」亜季はふと顔を上げた。澄んだ空気を吸い込むと、のどの奥に少しだけ春の甘さが残った。 ふたりの歩幅が、次第に昔より近づいていく。その先で、何かまだ名付けられない感情が、ゆっくりと形になろうとしていた。
啓太と亜季は、ゆるやかな午後の空気に包まれたまま、けやき並木の細い通りに足を進める。都会のざわめきは少し遠くなり、行き交う車の音が低く揺れている。ふたりの靴音は、舗装のたわみやわずかな段差に合わせてリズムを作る。歩道の端に積もった埃っぽい花びらが、足もとで舞った。 「この道、好きだったな」啓太がつぶやく。指先で上着の裾をいじりながら、どこか遠い声で言った。 「昔、よく寄り道したから?」亜季はポケットの中で指先に鍵の冷たさを感じる。 「それもあるけど……なんか落ち着くっていうか。変わんないな」啓太は歩調を合わせて、横顔に少しくすぐったそうな笑みを浮かべた。 その素朴な仕草が、亜季の胸にそっと染み込む。幼い日の、遠回りした放課後。何でもない噂話や、理由もなく走った坂道。今は、言葉よりもその沈黙の脇に、小さな呼吸が仕舞われているだけ。 公園の角まで来て、啓太がふと足を止める。緑色の柵、古びたベンチ。時間にふくよかさが加わった場所。亜季はベンチの端に目を止める。「座ってみる?」 「うん」彼女は頷き、ベンチのひやりとした座面に手を置く。しばらく、街路樹越しの日差しがふたりの膝に差し込む。 啓太は、少し呼吸を整えてから言った。「……あの頃、何か言いかけた気がするんだ。たぶん言えなかったけど」 木の葉の重なりが、やさしく揺れている。亜季は自分の指先に流れる微かな震えを感じながら、ふいに息を飲んだ。遠くで、子どもたちの声が丸く跳ねている。その響きを聞きながら、ふたりはこれまでの「言いそびれたこと」を、ようやく拾い上げようとしていた。
啓太はベンチの端に視線を落としたまま、掌を擦り合わせていた。近くの街路樹が、まだ半分だけ芽吹いた葉を透かして明るさを落とす。時折、その光が亜季の膝にも斑に影を描いている。彼女は膝に手を重ね、何度か息を整えてみる。そのたび、古びたベンチの冷たさが静かに伝わった。 「あの時さ……」啓太は急ぎ足の息を混ぜながら、口元だけわずかに緩める。「最後に、駅で話したとき。俺、本当はずっと……」 言葉がぷつりと途切れる。亜季は返事を急がず、細い花びらが自分のコートに静かに乗ったのを見ていた。掌をそっと擦って、春の埃と冷たい記憶が皮膚にまとまりつく気がする。 「啓太」思わず名を呼ぶ声が、少しだけ震えてしまう。「私……あの時、ほんとうは行きたくなかった。転校のことも、ちゃんと伝えたかったのに」 ベンチを隔てる数十センチが、遠くも近くも感じられない。「メールも書いたけど、何度も途中で消してばっかりで」彼女は苦笑する。指先の冷たさがじっと残る。 「俺もさ、言いたいことあったのに、ずっとそのままで……」啓太は一度だけ深く息を吐き、それからゆっくりと亜季の隣に目を向ける。「もう今さらかもしれないけど、あの時……すげぇ寂しかった。多分、怒ってたんじゃない。黙って見送った自分のほうが、情けなくて」 柔らかな光の揺れが、ふたりの距離に淡い輪郭を与えていく。遠くからまた、子どものはしゃぐ声が響く。それがふたりの沈黙にも、小さな勇気を染み込ませていった。 「今だから、話せるんだね」亜季はようやく啓太を真っ直ぐ見る。その視線の奥で、ずっと抱えてきた小さな痛みも、静かにほどけはじめていた。
沈黙の中で、二人の呼吸だけが時間を確かに刻んでいた。息を合わせるように、風がベンチの下をくぐる。亜季は掌の上で思い出を撫でるように指を動かす。古びたコートの布地に日の光がそっと滲む。ふと、啓太が控えめな声で続けた。 「…あの頃、うまく言葉にできなかったことって、今でも忘れられないんだな」 「うん」亜季は、ベンチの角にかすかに身を寄せる。「私も。上手く伝えるの、ずっと苦手だったかも」 「俺なんか、駅まで見送った時さ、なんか固くなりすぎてさ…」啓太は鼻先で笑う。「ほんとは、まだいなくなってほしくなかった。恥ずかしくて言えなかったけど」 桜の枝が二人を繋ぐように影を落とし、コートに落ちた花びらがじんわりと熱を広げていく。過去の「今度な」「またな」の言いそびれた言葉たちが、空気の中でゆっくり溶けていく。 「でも、今日こうして会えたの、きっと偶然じゃないよね」亜季がそっと呟くと、彼女の声は自分の中にも、啓太の中にも、長らく落ち着く場所を探していたような温度で届いた。 「うん、そうかもな。俺…ずっと、この辺に引っかかってた気がする。仕事も部屋も、なんとなく決めて…でも理由はなんだったんだろうって」 言葉に小さく笑みが混じる。春の埃と共に、十年分の後悔や未練が、深呼吸のたびに輪郭を失ってゆく。「俺さ」啓太が切りだす。「本当はまた、あの時みたいに隣で笑いたかった。大人になった今でも」 喉の奥がほんの少し痺れる。亜季は啓太の横顔を、遠慮がちに確かめる。「…何度会っても、また話すことがあって、昔の話にもどって。なんか、それだけで少し幸せだよね」 遠くの子どもたちの声、車の流れる音、花びらが舞う音。それらが折り重なって胸に残る。過去の「今度」の約束も、「またな」の先延ばしも、全て今日へ繋がっていたことを、ようやく自分で許せそうな気がした。 「この先…またばらばらでも、別にいいよな」啓太は、ベンチの縁で指を組みかえた。「でもさ、今度は…迷わず会える気がする」 「私も」亜季は少し息を吸い込む。「だって、こんな偶然があるなら、きっと根っこでは繋がってるんだと思う」 ふいに頬が熱く、手先が微かに湿る。視線が合い、ふたり、ことさら大きくは頷かなかった。ただ一瞬だけ今が重なり合う。 街路樹の細い枝に、一枚の花びらが引っかかって揺れる。その輪郭は、けっしてはっきりとしないけれど、春の光と重なって微かに光っていた。 沈黙のなか、啓太が立ち上がる。「そろそろ帰る?」 「そうだね」と亜季も立つ。ベンチの冷たさと温かさを指先につけたまま、並んで歩き出す。公園を出るころ、振り返ると先ほどのベンチに、小さな春の影ができている。 「次は、いつ会えるかな」亜季が聞くと、啓太はふわりと笑う。「今度――じゃなくて、また連絡する。だから逃げるなよ」 「分かった」亜季は微笑んだ。二人の背を、春の埃がそっと撫でていく。 名もない花びらが風に舞い、未来のどこかでふたりをもう一度、やわらかく包み込むかもしれない。そんな予感を、亜季は確かに胸に覚えながら、歩道の光へと歩み出した。
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