羽田発ソウル行きの機内で、僕は左窓側の席に座っていた。翼が灰色の雲を割って上昇していくのを、食べかけのミントキャンディが口の中で転がるたびに眺めていた。隣の席は最後まで空席だったはずなのに、出発間際になって背の高い女性が現れた。無言で荷物棚にキャリーケースを滑り込ませると、軽く息を吐いて僕の隣に腰を下ろした。 彼女は三十路くらいだろう。パウダーブルーのカーディガンに、うっすらスミレ色のマフラー。指先がやや冷たそうに見えた。飲み物のワゴンが揺れながらやってきて彼女は「トマトジュース、氷抜きで」と囁く。僕は水をもらって、窓の外に視線を戻した。 雲上の光は曖昧で、輪郭がぼやけていた。僕は知らない誰かとここで数時間も同じ空気を吸うことに、少しだけ奇妙な親しみを覚えた。彼女がふと手荷物の中から小さな銀色のペンを取り出す。そのキャップの天辺に、サイコロの目が浮き彫りになっていることに気づいたとき、彼女が僕の膝の上から落ちそうになった安全カードを拾って差し出した。 「落としましたよ」彼女は短く声をかけて、視線は窓の外に向けたままだった。指先がほんの僅か触れる。僕は礼を言いそびれたまま、機体の振動と、遠ざかる街明かりの粒をぼんやり追った。彼女のサイコロのペンだけが、妙に記憶の底に残っていた。 到着までの時間がどのくらいなのか、僕は妙に落ち着かず時計に目をやる。雲の切れ目から朝日が差し始め、窓に淡いピンク色がにじみはじめた。このまま何もないまま着陸するのか、それとも何か予感めいたものがあるのか。指先にまだ彼女の冷たさが、かすかに残っている気がした。
雲の向こうが、ほのかに橙色へと溶けていく。僕はペットボトルの水を小さく口に含む。舌先にわずかにミントの香りが残っていて、機内の乾いた空気と混ざりあった。その隣で、「機内誌、取ってもいいですか」と彼女が囁く。カーディガンの袖が肘までずり落ちていて、手首の細さが際立った。 「ああ、どうぞ」と答える。僕の前のポケットから彼女に冊子を差し出す。彼女は表紙も見ず、ぱらぱらと中をめくりはじめる。その紙のきしむ音、ページをめくる指先の動き。朝の光が金属窓の淵に反射し、彼女の横顔とページの白が淡く重なった。 僕は窓の外へ再び意識を流す。都市の目が覚める音は機体には届かない。ただ時折、どこか遠くで咳払いがして、カートが通路を揺らすだけだ。シートベルトが太ももに食い込んで、生ぬるい感触だけが現実だった。 「よく、飛行機に乗るんですか」彼女がつぶやく。表情は変わらない。ただ、声の重なり方に微かな躊躇いが混じっていた。 「それほどでもないです。なんだか、まだ落ち着かなくて」と僕は返す。彼女は口元だけで薄く笑う。まつげがピクリと揺れた。 「私も、あんまり慣れなくて」と。言いながら、天辺にサイコロの目が浮かぶペンを親指でくるりと回す。そのたび光がきらり瞬く。時計を見ると、到着まではまだしばらく、時間が余っていた。 通路の向こうで別の乗客が立ち上がり、荷物を棚にしまい直している。その衣擦れの音に、僕らだけのこぢんまりした静けさが、ふいに揺れた気がした。
ページをめくる音がとぎれ、彼女はふと喉を鳴らす。「この地図、見えにくいですね」と、機内誌の都市案内を指さした。紺色の線が霞み、ソウルの小さな駅名がぼやけている。彼女のマフラーの端が肩から滑り落ち、彼女は少し肩をすくめて結び直した。香水ではない、洗いざらしのコットンのにおいが微かに漂う。 「確かに...」僕は身を乗り出し、二人の間に誌面を置く。指先がごく近く、擦れあいそうで擦れない。彼女は細いペンで地図を軽く叩く。「このあたりで乗り換えがあるんでしょうか」僕はぼんやり線を辿り、エッジの鈍い活字を眺めた。しばし沈黙が落ち、足元に眠った空気が溜まる。 「ソウルは、初めてですか」と、僕。「うん、仕事で急に」と、彼女。語尾が小さく震えたあと、彼女の指が不意にシャツの裾をつまむ。何か言いかけて、やめたような視線。 「空港に着いたら…ちょっと迷いそう」と彼女が言う。窓の外では海外の曇った青空が、翼に歪んで映っていた。僕の呼吸が浅いまま止まる。 「もしよければ、一緒に出口を探しましょうか」と口にしてから、ほんのわずかに肩が熱くなった。彼女は黙って僕のほうを見た。その沈黙の向こうに、微かな肯定の気配が漂った。 窓の向こう、雲と光のあいだに、遠く陸地の影がかすかに現れ始めていた。
ふいに、機体が軽く揺れた。彼女は反射的に指先を握る。その仕草に、思わず視線を向けた。朝の光が窓から斜めに差し込み、彼女の横顔を薄明るくなぞる。頬はわずかに青白く、シャープな顎のラインと細い首筋に、色の薄い髪がふわりと触れていた。左の耳たぶにだけ、小さなパールのピアスが揺れている。マフラーの端は胸の前できゅっと結ばれて、その下に隠れる鎖骨が、息づかいとともに浅く上下した。 彼女は視線を下ろし、カーディガンの袖口を指でいじっている。爪は短く整えられ、左薬指の根元にうっすらと絆創膏の色がのぞく。その手がペンを握ると、不思議にしなやかで、華奢さの中に芯の強さを感じさせた。 「もうすぐ、着きそうですね」僕の声に、彼女はわずかに頷いた。上まぶたには淡い影が落ちて、まつげが長く揺れた。 「あんまり眠れなくて…こういうとき、どうしてます?」 掠れた声で聞いてくる。僕は少し悩むふりをして、首を傾げた。 「窓の外を眺めるぐらいかな、あとは…」と言いかけて、気付く。彼女の輪郭が朝焼けの色に溶けて、どこか近づきがたい透明さをまとっていることに。 彼女は微かに唇を噛み、窓の外に視線を流す。その表情からほんの一瞬だけ、旅の行き先よりも、ここで何かが始まりそうな――そんな予兆めいたものが立ちのぼった。
機体のエンジン音が急に緩やかになる。降下が始まったのだろう。彼女はペンを手のひらに包み込む。サイコロの目が、親指で隠される。そのまま、ごく低い声で「さっきの…その、出口のことだけど」と切り出す。僕は少し息を浅くしたまま、彼女の横顔をうかがう。 「実は――」彼女は短く言い淀む。手元を見つめて、爪の先で絆創膏の端をなぞっている。「空港に…迎えが来るはずだったんです。でも、連絡が取れなくなって」 彼女の眉間が、ごく僅かに寄る。胸のところでマフラーの端を握りしめている。「それが誰かは…ちょっと説明しにくいんだけど」 いつもと違う、ほつれた感情が彼女の声に混じる。僕は、朝の光を背にしてゆっくり首を縦にふった。 「たとえば、どうしても会えない人とか?」 彼女は驚くような、しかし納得したような目を僕に向けた。「そうかもしれない」と小さく呟く。そしてキャリーケースの取っ手に指を掛けた拍子に、鞄の隙間から、古い航空券の切れ端が零れ落ちる。 彼女は慌ててそれを拾う。表には消えかけた文字が残っていた。そこに記されていた日付は、今日ではなかった。一年前の同じ日付。彼女がそれをぎゅっと握る指に光がにじむ。僕はなぜか、背中の奥で冷たい風が通り抜けていくのを感じていた。 「間もなく、金浦空港に到着します」という機内アナウンスが流れる。その小さな謎だけが、機内に溶け残っていた。
着陸のためのシートベルトサインが灯る。彼女はペンと古びた航空券の切れ端を、そっとカーディガンの内ポケットにしまう。その仕草はほとんど祈りのように静かだった。 機体が降下を続けるあいだ、窓の外では雲の切れ目から街の灯りと川筋が浮かび上がってくる。僕は無言のまま、背もたれ越しにぬるいオレンジ色の光を追った。隣から控えめな息遣いが聞こえる。彼女の指が、無意識にマフラーの端を焦ったように揉みしだいていた。 「本当は…」彼女がふいにつぶやく。「この便を選んだのも、あの切符のせいなんです。去年の今ごろ、この空の下で、誰かにさよならを言った。それだけ――」 最後は、声にならなかった。僕はうまく言葉を探せず、自分の膝に手を置いた。「それ、怖くなかったですか」と小さくたずねる。 彼女はしばらく黙っていた。「…怖いこと、たくさんあった。でも…どうしても確かめたいことがあるんです」 彼女の横顔に、機外の明滅する誘導灯がちらちら反射する。古い記憶か、それとも消えない約束の痕跡か。彼女の秘密はまだ深い靄の向こうにあって、でも、その気配だけが確かにここにあった。 タッチダウンの衝撃がシートにじわり伝わる。僕は浅く息を吐いた。機内の古い空気が、わずかに入れ替わる。その中で、何かが新しく始まるような予感もまた、消えずに残っていた。
機体が完全に停止する直前、通路の奥から携帯の着信音が響いた。現実のざわめきが静けさを切り裂き、数人が一斉にバッグや上着に手を伸ばす。その波の中で、彼女はまだシートベルトに手をかけたまま、ポケットからペンを取り出していた。サイコロの目は「6」。彼女はそれを覗き込んで、ほんのわずかに表情をほころばせる。 「着きましたね」と僕が言うと、「…うん」と彼女。窓の外、曇天の下に濡れた滑走路が伸びている。機体の重たいドアが軋みを上げて開き、都会的な、薄い土とコンクリートの匂いが急にはっきり流れ込む。 乗客たちの列に続き、僕たちもゆっくり歩き出す。キャリーケースの車輪が小さく引っかかる音と、金属の床板を踏む不規則な振動。エプロンに降り立つと、冷たい風が頬を撫でた。彼女はマフラーの先を無意識に唇に当てる仕草を見せ、一瞬、考え込むように立ち止まる。 「さっき…」彼女が言いかけ、改めて声を探す。「去年も、こうして空港に立ったんです。でも…誰もいなかった」 僕は隣で、遠く滑走路の向こうに霞んでいく光を眺める。頬の内側をそっと噛み、「今年は、どうなりますかね」とぽつり。彼女は小さく笑い、「あの切符、たぶん渡すべき人がいるはずだったんだと思います。…何か、もう少しだけ確かめてみます」 足元の小走りの音や、スーツケースの擦過音が消えかけていく。到着ロビーの先から人々の流れが押し寄せる気配がした。彼女は手のひらでペンを転がしながら、静かな声でつぶやく。「出口まで…一緒に行きます?」 暗いガラス壁に、二人分の影だけが淡く重なっていた。
出口へ向かう廊下は、昼の光に少しだけ濁っていた。スピーカーから韓国語のアナウンスが反射し、僕たちの足音は床材に淡く吸い込まれる。彼女は一度も振り返らずノートの切れ端を指先でいじっている。空港のガラス壁の向こう、滑走路の端で霧が揺れているのが見えた。 「去年も…」彼女が小さく呟く。「同じ場所で、この曇り空を見たのを思い出した」 彼女の声に含まれた微かな乱れを、僕は聞き逃さなかった。隣で歩幅を合わせながら、黙ってその続きを待つ。 彼女は立ち止まり、切符を光にかざす。「この日付、去年のままだったんです。隣に一緒にいるはずの人がいて。その人と会うための便だった。でも、迎えは来なかった」 「それで……今日も同じ便を?」そう尋ねると、彼女は頷いて目を伏せた。少し唇を噛む。指先がかすかに震えている。「あの人に、ちゃんとさよならを言ったのかも、覚えていなくて…」 ロビーの入り口で、遠く自動ドアが開く音がした。人の波が生まれ始める。 僕は立ち止まった彼女の隣に静かに並ぶ。「…今年は」僕の声が、不思議と落ち着いて聞こえる。「ちゃんと何か、見つけられそうですか」 彼女は少しの間、廊下に流れる光を眺めていた。それから、ごく小さく――でも確かに首を縦にふる。 「…たぶん、今年なら」まつげの先に光がにじみ、彼女はまた歩き出した。ロビーの先に、見知らぬ人波のざわめきが広がっていた。
出口の自動ドアが閉まる音が、遠くで重く響いて消えていく。僕たちは人波の端にいた。淡い光が床にゆがんで広がり、足元でその輪郭が静かに溶け合っている。彼女のキャリーケースの車輪が、タイルの溝にごく小さく引っかかる。音がとまり、僕は立ち止まった彼女の横顔をそっとうかがった。頬はほのかに強張り、胸元のマフラーの端を指先で繰り返し撫でている。 「…去年も、この床で一人だったんです」彼女はほとんど自分に言い聞かせるようにつぶやく。「出て行ったら、何もかも元に戻るかと思って。でも、街の匂いとか、遠くに消えていくアナウンスとか…全部、前とは違っていて」 彼女の声が少しだけ揺れる。隠したつもりの感情が零れてくるのを、誰も止められないまま、新しい午後の匂いが静かに押し寄せてきた。 「それなのに、また来ちゃったんですね」笑おうとする彼女の声は細く途切れる。僕は何も言えずに、背中でロビーのざわめきを受けながら、その場に立っていた。 手渡すように、彼女が航空券の切れ端を僕に差し出す。指先が少し冷たい。紙片から去年の季節の余白が立ち上がる。僕はその紙を受け取り、わずかに指先がしびれる。そのとき、外のガラス越しに、一羽の小さな鳥影が横切った。 「…行かなきゃ」と彼女が小さく呟く。僕はただ、うなずいた。出口の先に、まだ何も見えない白い光が流れていた。
彼女は出口へ向かいながら、二度ほど足を止めた。手許には、僕が受け取ったばかりの古い航空券の紙片。微かな手汗が染みて、消えかけた日付がいっそうあやふやになる。立ち止まった彼女の後ろ姿は、振り返る気配を残したまま廊下の薄い光と溶け合っている。 「…去年も、こうして出口を見たんです」と彼女がぽつりと漏らす。遠くから自動ドアが機械的に開き、人の気配が断続的に流れてくる。僕は、わずかに呼吸を浅くしながら歩み寄る。 「去年の私は、誰かにさよならを伝えることすら、ちゃんとできなかった。でも、今は――」言いかけて唇を閉じ、カーディガンの内ポケットから、あのサイコロのペンを取り出す。 彼女はペンの天辺を親指で撫でる。サイコロの目は「1」。ひとつぶだけの静かな始まり。彼女はそのまま僕の方を見つめ、ようやく視線を合わせた。「新しいことに賭けてみる方が、怖いですね」と呟く。 金浦空港のロビーは、午後の薄明るさに満ちている。床には足音が淡く反射し、遠くから荷物のカートの軋みが途切れ途切れに届く。スーツケースの取っ手を握り直した彼女の指先が、今はもう震えていないことに、僕は気づいた。 「去年のあなたは、ここで止まった。でも今年のあなたは…」言いさして、僕は手にした紙片をそっと掲げてみせる。「もう違うんですね」 彼女は、ほとんど微笑みに近い表情を浮かべて、小さくうなずく。「大丈夫…たぶん、予想よりずっと。」 出口の白い光が、二人を包み始める。ロビーの向こうで鳥が一羽、滑走路の端に降り立つ。空港の音と、都市の息遣いが交錯する。記憶と現在の狭間で、僕たちの影だけが重なり合い、やがて少しずつ長く伸びていく。 「…一緒に行きませんか」彼女の声は、もう以前のように掠れていない。僕は静かにうなずき、彼女の横に並ぶ。足元で、ミントキャンディの包み紙がいつの間にかくしゃりと潰れていた。忘れかけていた味が、舌の奥に仄かに戻ってくる。 「これから先のこと、全部はわからなくても…」彼女は、サイコロのペンを鞄の外ポケットに差した。「少しくらい賭けてみてもいいかなって、思いました」 出口のドアが開く。午後の光と薄く湿った風が、見知らぬ街の匂いをまとって頬に触れる。互いのキャリーケースが小さくぶつかり、その音が合図のように二人を現実に押し戻す。 誰かを待ち、それでも進めず後ろを向き続けていた彼女は、ゆっくりと歩き出した。僕もその横を歩く。ふたつの影がひとつに重なって、知りもしない都市の床を、どこまでも静かに伸びていく。 もう迎えはない。けれど、確かに何かを渡せた。曖昧な都市の午後に、ほんのわずかな勇気と透明な余白だけを、鞄の中に忍ばせて。 出口の外では、鳥たちが複雑な円を描いて飛んでいた。僕たちは、その輪郭のどこかを、きっと共有していた。
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