ガラス越しに午後の光が帆のように床を滑っていた。中央図書館の奥、窓際の席に腰掛けて、僕は分厚い哲学書をぱらぱらとめくっていた。紙の手触りと、僅かにカビの混じる古書の匂いが、都会のざらつきを消してくれる気がした。向かいの席には、いつのまにか女の子が座っていた。淡いベージュのコート。長い前髪で彼女の表情は半分隠れている。 ページをめくる指の動きがふと止まった。「すみません、ここ…空いてますか?」彼女が小さく尋ねた。声は思っていたより高くて、少しだけ震えが混ざっていた。僕は顔を上げて、無言で頷いた。気まずい沈黙が一瞬漂う。彼女は柔らかく本のページを開くと、息を吐き出した。タイトルは見えない。だけど、手元に置かれた鉛筆の芯がやたらと短いことに目がいった。 窓の外でバスが通り過ぎる音、遠くで時計が針をすすめる音が響いていた。お互いに話すべき言葉を捜しあぐね、結局ふたりはそれぞれの本に視線を落とすしかなかった。カフェのテーブルとは違う、仄かに距離のある空気。それでも何かが、静かに並行して動きはじめたような気がした。 ページから顔を上げると、彼女がこちらを一度だけ見た。大きなマグカップの柄が袖から覗いていた。僕は急に、次に会うための理由がほしくなるのを感じた。短い鉛筆の芯と、彼女の横顔が残像のように残ったまま、時は静かに流れていった。
春特有の薄い曇り空が、窓から灰色の光を落としていた。僕が読んでいた文章の意味が、ページの紙の隙間に溶けていく。窓際の席を隔てるほどの沈黙が、次第に耳の奥へ澄んでゆく。 ふと、隣から紙が擦れる音。彼女の指先が細い鉛筆を捉えて、小さな文字をノートに残している。筆圧がかすかに弱い。そのたどたどしさがなぜか無性に気になり、僕は本から目を離した。 彼女は書き終わった行を指で撫でて、ためらいがちにため息を落とした。ちら、と僕の方を見かけて、すぐに視線を伏せる。マグカップを両手で包み込んだまま、何か言いかけて飲み込むような仕草――呼吸が触れるほど近くて、でも見えない壁のむこうだった。 「…今日、寒いですね」蚊の鳴くような声がテーブルを渡ってきた。 「うん、窓の外、ずっと曇りだし」 息を飲む音がやけに大きく響いた。彼女のコートの袖口に、細い糸くずが絡んでいるのが見え、思わず指で取ってやりたくなったけれど、手は膝の上で止まったまま動かせない。たったそれだけの会話が、長い距離を旅してきたみたいに感じられてくる。 図書館の奥で、時計の針がひとつ進む。なぜか、この沈黙ごとまるごと忘れたくない気がして、僕はもう一度だけ、彼女の横顔を目に焼きつけた。
頁をめくる音が遠く背中に響いていた。昼下がりの図書館には相変わらず人影が少ない。柔らかく反響する誰かの足音と、空調の低い唸りだけが、空間を満たしている。僕は机の下で靴をこすりながら、未だ隣に座る彼女がどうしても気になって仕方がない。 彼女のノートには、きちんと揃った文字が並んでいた。ところどころ消しゴムで擦った跡もあり、文字の上にうっすら指の油が光っている。さりげなく覗き込むと、その行には数式と短い英文。それが受験生のものか、あるいはもっと個人的な詩みたいなものなのか、読めないままでいる。 「図書館、よく来るんですか」勇気の残りかすを搾り出すように僕は言った。 彼女は口元に髪を垂らしたまま、わずかに顔を上げる。 「うん…静かだし。家より落ち着くんです」 その声を聞いて初めて、彼女の足元を見た。スニーカーは少し擦り減っている。コートの縁がわずかにほつれていた。彼女はマグカップを持ち上げ、ひと口飲んだ。陶器の底が机を打つ音が、やけに切れ切れに響いた。 「何か、勉強してるの?」 「…ううん、ただ書いてるだけ。気が散りやすいから、ここにいるの」 目はノートを見ているけれど、まぶたのふちがゆっくりゆれている。僕は、何か大切なことをまだ訊いていない気がして、鉛筆の芯の先に視線を落とした。外の雲がわずかに薄くなり、一筋の光が窓辺を舐める。その瞬間、彼女のノートの余白がふっと明るくなった。
光の筋が窓際の席をまたいで、彼女の手元にまで伸びていた。彼女はうっすらと眩しそうに眉を寄せ、あごの下で指先をもぞもぞと動かしている。僕は、なぜだかその仕草が妙に印象に残った。無関係な顔を装いながら、本のページを一枚捲る。けれど、耳の奥ではさっきまでの彼女の小さな声が繰り返していた。ただ書いてるだけ、と言ったあの響きが。 気が散る、という言葉にも何か秘密が隠れているような気がする。もしかしたら、彼女も僕のことを知っているのでは――唐突に、そんな考えが頭に浮かぶ。ありえないはずなのに、彼女の視線が時々こちらに触れるたび、その可能性がぬるく体内をめぐる。袖口の糸くずを直すタイミングさえ失い、両手は机の下で汗ばんでいる。 「……あの、さ」声が勝手にこぼれた。「どこかで…会ってたり、してたかな」 彼女は少し間をおいて、唇を閉じたまま僕を見た。眼差しはどこか遠くの景色を探すようで、すぐには答えが戻ってこない。机に刻まれた傷の跡に指先を滑らせると、遠くで本を閉じる音がした。 「どうかな…」彼女はマグカップを握る手を小さく動かした。「でも、なんとなく知ってる気がするんです」 その言葉が、くぐもった午後の空気をほんの少しだけ揺らした。外ではバスが何度目か分からない往復を繰り返している。心の奥で何かが薄くひび割れる音がした。
椅子の脚が床をすべる音。ほんの少し間を置いて、僕たちは同時に本を閉じた。互いに驚いたように目が合う。彼女は最初、何か探るような視線を浮かべていた。でも次の瞬間、まるで自分を笑うみたいに眉尻が下がった。ほつれたコートの袖先を握りしめたまま、かすかに首を傾げる。 「私ね、ほとんど毎日ここにいるんです」息を吐きだすような声だった。「別に用事があるわけじゃないんだけど。なんとなく好きで」 声量は控えめなのに、不思議と図書館の奥まで届く気がした。僕は古書のページを指で挟みつつ、言葉を探した。自分も同じだった。どこか居場所が欲しくて、気づけばこの窓際に通ってしまう。 「僕も…たぶん、似てる」そう言って、少し唇を噛んだ。「家より、ここの方が呼吸しやすい」 外では午後の光が灰色の雲に溶けかけている。マグカップの中の珈琲がかすかに揺れ、漂う香りが冷えた空間をやわらげていく。彼女は頷きながら、掌の中の鉛筆を何度も回した。芯はさらに短くなっていた。 「…ほんとは前から、声かけようと思ってて」 不意に、彼女が小さく笑った。迷いと照れが混じる瞳。僕の心臓がふっと中空で弾む音がした。それを誤魔化すように、外を走るバスのエンジン音に耳を傾けた。今日の図書館は、少しだけ違う匂いがする気がした。
珈琲の香りがほんのり残るカップを、彼女がそっと机の端に寄せた。その指先の動きが、いつもよりゆっくりしている気がした。僕は、思い切って椅子の背にもたれてみる。目の高さが少し変わると、窓の外に淡い青空が覗いて見えた。 「さっき…」彼女の声が、不自然に静かな空気の綻びを縫う。「ここのこと、誰かと分けあえたらいいなって、前から思ってたんです」 照明の光が彼女の髪の毛の間をすべって、頬にやわらかな陰を作る。僕は拳の中に汗がにじんでいるのを感じたまま、ただ何も言わずに彼女の方を見た。 「でも、言えなくて」彼女は右手の親指と人差し指で鉛筆の芯を転がしながら、軽く肩をすぼめる。「こうして…並んで過ごすの、すごく不思議」 僕の指先が、机の冷たい縁に吸い寄せられる。距離は変わらないはずなのに、何かが確実にこちら側へ寄ってくる気配があった。窓の外、木々の枝先が風に揺れ、ちらと影が壁に映っている。 「……一緒にいられるの、僕も好きです」 出しかけた言葉が、胸の膜をやぶりそうになって立ち止まった。彼女は視線をそっと落とし、うっすら微笑む。しんと静まる図書館にふたつの影が重なって、その輪郭がゆっくり溶けていく。 そのとき、彼女の肩がわずかに僕の肘に触れた。呼吸がほんの半拍だけ乱れる。机の下で、無意識に手を握りしめていた。窓の外の明るさが、いつもより心に近い場所に感じられる。「ねえ…」と彼女が続けようとする声が、僕の耳に小さく残った。
机の下で握りしめていた手の指先に、じんわりと汗が滲む。彼女の「ねえ…」という声だけが残響のように残ったまま、なぜか言葉が、次のひとつに届かない。椅子が少し軋む音がして、僕は息を吸い込む。鼻先をかすめる紙と珈琲の微かな匂いが、妙に鮮明だった。 「……なに?」と、ようやく声に出す。心なし声が裏返りそうになるのをごまかすように、足先を床に擦った。彼女は少しだけ考えるふうに唇をすぼめて、それから一度、視線を外した。図書館の奥で、書棚に誰かが背中を向けて何かを探している様子。その人影に目を留めてから、ゆっくりとこちらに向き直る。 「……もし、」彼女は両手でマグカップを包み直した。「明日もここに…いてもいいですか?」 一瞬、時間が引き延ばされるような感覚があった。僕は手のひらの汗を拭えぬまま、間抜けなほど静かに頷く。「……もちろん」ほんとうは、それしか言えなかった。 彼女はカップの縁に親指を沿わせていた。その爪先の白さが、やけに儚く感じられる。「じゃあ、また明日」彼女はゆっくり椅子を引く。ふわりと衣擦れの音がして、僕は思わず椅子の背に力を込めた。 こういう些細な約束でさえ、なぜこんなに胸の奥がざわめくのだろう。彼女が去ったあとの空席と、残り香の中で、窓の外の光だけが背景にぼんやりと広がっていた。
こうして図書館に来る目的が、確かにひとつ増えてしまった。夜になっても、そのことが頭から離れない。机の下で交わした何気ない応答や、彼女が残していった淡い香り、手のひらの温度の余韻。そういったものが、静かな部屋のなかで静かに膨らんでいく。 明日が待ち遠しい、と思う自分がどこか可笑しくて、でもどうしたらいいか分からない――そんな感覚が、毛布の内側でじわじわ広がった。窓の外では、高架を渡る電車の音がかすかに聴こえる。ページを閉じたときの、あのわずかな沈黙が、いまも耳の奥で引っかかっている。 灯りを落とした部屋で、ベッドの上に転がる。カーテン越しに滲む街灯の光が、天井にぼんやりとシミのような模様を作っている。考えすぎかも、と自分に言い聞かせるけれど、結局目は冴えて眠れそうもない。明日、彼女は本当に来るだろうか。何を話せばいいのか。返事をした時の彼女の横顔と、白い爪先。その欠片だけが、断片的に思い出されていく。 身体の隅に残る緊張は、布団の縁をつかんでいても消えない。――ふいに、机の角に残る消しゴムの匂いがよみがえる。彼女のノートにあった、誰にも見せていない文字。なにを書いているのだろう。そこに、僕の知らない新しい一頁が隠れている気配がする。 壁の向こうで隣家の冷蔵庫が静かに唸る。世界は今日も変わらず静けさの中にあるはずなのに、自分の内側だけが妙にざわついてくる。目を閉じても、柔らかな光に包まれた図書館の一角が浮かぶ。淡い期待と、少しだけ苦い予感の狭間で、明日が静かにやって来る気がした。
朝の空気は昨日よりも透き通って感じた。寝不足のまま、駅前のパン屋でクロワッサンを一つ買う。唇に触れたバターの香りが、頭の重さを少しだけやわらげてくれた。図書館への道を歩きながら、やけに自分の呼吸が大きく聞こえる。心臓の脈動が、リズムを崩しそうになる。 一体自分は、何を期待しているんだろう。彼女と会う約束。それだけで、世界が決定的に変わってしまいそうで、どこか落ち着かない。けれど本当は、その日常の微かなきしみ一つさえ怖い。もしかしたら、今日は彼女が来ないかもしれない。そんな不安が、クロワッサンの残りと一緒に胃へ沈んでいった。 図書館の入口をくぐる。平日の午前だからか、利用者もまばらだった。やわらかい照明と紙の香り。見慣れた窓際の席には、まだ誰もいない。思わず数秒間だけ立ち尽くして、誰かに見られていないか周囲を確かめる。 「おはようございます」背後から、静かな声が聴こえた。振り向くと、彼女が小さなマフラーを首に巻いて立っていた。日は柔らかく指先に差し込む。細く息を吐いた彼女が、何気ないふうで、でも僅かに恥ずかしそうな目つきをしている。 図書館はずっと通ってきた場所なのに、僕は彼女のことをほとんど知らなかった。いや、知る努力もしていなかったのかもしれない――そんな疑問が、ひそやかに胸の奥をノックする。 「あの……その、今日も隣、いいですか?」彼女は、前髪の先を指でいじりながら言った。 「もちろん」自分の声が、思ったより軽く響いて少しだけ照れた。窓の外では、街路樹が新しい風に枝を揺らしていた。
彼女が椅子を引く音は、今日に限っては不安ではなく始まりのように響いた。カバンからノートと、例の短い鉛筆の芯が出てくるのを眺めながら、僕はポケットに入れてきたクロワッサンを掌の中でひやす。ほんの少し前なら、こんな些細な動作にも戸惑っていたはずなのに、今日はどういうわけか、息の流れさえ自然だった。 「朝、パン屋さん寄ってたんですか?」彼女が、マフラーの隙間から控えめに訊ねる。僕はクロワッサンを半分に割り、巣のように柔らかい断面を机の上にそっと置く。「よかったら、どうぞ」この申し出が、長い沈黙を繰り返してきた僕なりの冒険だった。 彼女は最初、少し驚いた顔をしていたが、やがてその表情が解ける。「……いただきます」と指先でつまむ。そのしぐさに何も重さはないけれど、紙と珈琲と、ほんのりバターの香りが混ざる空気のなかで、それが確かに存在していることを思い知らされる。 「毎日、同じ席ですね」と、彼女。僕は「うん」とだけ返し、少し肩の力を抜く。彼女のノートにはまた、数式と英単語が並び始めていて、その横に小さく、詩みたいな言葉が混じっていた。「やっぱり、本当は何を書いているの?」と尋ねそうになり、言葉を飲み込む。 それでも彼女の手がわずかに止まった。「……さっきから、言いそびれてて」目はノートの余白を探しながら、声だけがこちらにすべってくる。「最初にここで会った日、あなたの本のタイトル、何となく覚えてます」「哲学書だったから、難しそうだなって思って。でも、それを読む人と、隣にいたくなったんです。理由なんてわからないままだったけど」 僕も机の端を指でなぞり、「最初は、短い鉛筆の芯が気になってました」そう返すと、彼女は小さく、意地の悪さを含みながら笑った。「だから毎日、減るたび削ってたんです」「ここにいると、芯ばかり短くて、ノートばかり増える。家だと全然書けないのに」 それだけ言って、彼女は何かを待つように指先でページの端を弄った。図書館の窓から、春の光が薄く差し込む。街路樹の緑が、風にまた揺れた。その静けさの中で、不意に僕は訊く。「もし、この鉛筆がなくなったら?」「それでも、ここで会う?」 彼女は驚いたように見えたあと、ゆっくり頷いた。「…うん。一緒にいられるなら、鉛筆がなくなっても平気かも」 僕も言葉を返さず、ただ呼吸に耳を傾ける。これまでふたりを繋ぎ止めてきたのは、短い鉛筆の芯や、誰にも見せていなかったノートの余白、共有した静かな時間だった。けれど今、机の上にパンを分け合い、並んで本も開かずにいられる。それだけで十分だった。 「今日も、一ページだけ詩を書いてみる」。彼女の声が、紙の上を滑っていく。芯はもう指先ほどの長さなのに、彼女はためらいなくノートに言葉を並べる。僕は横顔を見て、小さく頷く。窓の外では、バスが何度目かの往復を続けている。 日常のざらつきも不安も、こうして光の筋が優しく床を滑る午後には、少しだけ遠ざかって感じられる。短い鉛筆、珈琲の香り、交わした視線。それぞれが、ふたりの小さな象徴になっていた。 やがて、芯がとうとう尽きた。彼女はふっと微笑い、使い切った鉛筆を手渡してくる。「記念に…どうぞ」僕はそれを受け取る。手の中にわずかな重みが残り、これまでの静かな午後と、未だ名付けられない関係が確かにここに積み重なっていた。 そのとき初めて、ふたりの呼吸がふしぎなほど同じ速さになった気がした。窓の外には新しい風。ページを閉じても、淡い光と、ひとつの欠片が掌に残っている――そんな
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