体育館の床には無数の靴音が残っている。放課後の光が西の窓から斜めに差して、埃が浮いた。桜木花道は、バスケットボールを壁にぶつけては跳ね返す。響く音だけが静かな空間を埋めた。 「まだいたんだ」 声がして、振り向けば赤木晴子が入ってきた。手には教科書と白いハンカチ。体育館の匂いは少し汗くさくて、でもどこか安心する。 「あ、晴子さん…」 口の奥で名前が渦を巻く。ボールをつかんだまま指先が強張った。 晴子はバスケットゴールを見上げる。「ここ、好きなんだ。誰もいない時」 花道は言葉に詰まる。何を言えば届くんだろう。気持ちはあるのに、うまく形にできない。 「朝練、大変そうだね」晴子は微笑む。近くから見つめられると、鼓膜が妙に熱くなる。 花道はバスケットボールを握ったまま、ぬるい汗が人差し指から伝うのを無意識になぞる。「…まあ」 沈黙が落ちる。体育館の遠くで部活帰りの声がした。誰かの笑いが波のように薄まっていく。 「ねえ、桜木くん」少し早口になる。「これ、落ちてたよ」 差し出された白いハンカチ。角が丁寧に折られている。それを受け取ると、晴子の指が自分の手に触れた。 一瞬、心臓が跳ねて、息が詰まった。 「ありがとう」 やっと言えた言葉なのに、ぜんぜん追いつかない。気持ちだけ残って、遠ざかっていく。 晴子が扉へ戻る。「またね」 振り返った横顔が、柔らかく滲んで見えた。 花道は、ハンカチの端の刺繍をぎゅっと握りしめる。春の埃と、まだ乾かない汗の匂いが、しばらく手元に残った。
花道はしばらく動けなかった。指先に残る感触だけが現実で、他はふわふわと宙に浮いていた。ハンカチの刺繍、細い糸で小さな花。自分のものじゃない。他人のものなんだ、そんな理屈が頭をかすめても、どうでもよかった。 手のひらの中で微かに布が揺れる。体育館の換気扇がカラカラ鳴って、外からカラスが二羽、黒い影になって校庭を横切っていく。 なんでこんなに緊張してるんだろう。息を吐いても、胸ごと詰まる。ふだんは大声で笑っていられるのに、晴子の前だと、うまく動けなくなる。 「好きなのかもな」 声にならない独り言が喉の奥で溶ける。誰にも聞かれないはずなのに、言葉を出すのが怖かった。 遠くで体育館のドアがまたひらく気配。軽い足音。 思わずハンカチをポケットにねじ込む。バスケットボールをもう一度握った。手の中のぬめりが、今だけは少しだけ心強い。 「桜木、まだ帰ってなかったのか?」 今度はリョータの声だ。 「おう、ちょっとな…」花道は壁に寄りかかる。表情を隠すふりで視線をそらした。 「なんだ、その手? なんか拾ったのか?」 リョータの目が鋭く追ってくる。花道は慌てて手を後ろにまわす。 「べ、別に何でもねえよ。ほら、行こうぜ」 声が上ずる。心の奥に、さっきの白いハンカチがじわりと居座っている。
「お前、今日いつもと違ったな」 リョータが、階段を下りながらぽつりとつぶやいた。下敷きがバッグの中でかすかに擦れる音が、静かな放課後に混じる。 「は? …何がだよ」花道は前を歩く背中を追いかける。 リョータは肩をすくめた。「知らね。なんか緊張してたろ。顔、赤かったし」 返す言葉が見つからず、花道は踵で廊下の埃を払う。ポケット越しにハンカチの角が尖って指に当たった。 「アイツのこと、好きなんだろ」 リョータの声色が変わる。からかい半分に見えて、その奥に、どこか置き去りの淋しさが滲む。 花道は横目で様子をうかがう。リョータの指先が無意識に自分の袖口を触っているのが目に入った。普段なら気づかない些細な仕草。 ふと、何かがつながる感覚。――ハンカチ。細い糸の刺繍。 「これ、晴子さんのじゃ……なかったりして」 花道は呟く。言葉にしてみれば、荒唐無稽に思える。でも、廊下に残る淡い石鹸の匂い、リョータの目の泳ぎ方。 一瞬、記憶の中の体育館で、彼が誰にも見られず涙ぐんでいた姿が蘇る。 互いに言葉を失ったまま、靴箱の明かりが二人を薄く照らした。リョータの吐息が隣で震える。その音が、春の終わりに針のように沁みた。
下駄箱の棚に光が細く滑り込む。花道は靴を取り出すふりをして、リョータの横顔を盗み見た。睫毛が微かに震えている。いつもは明るい声しか響かない場所で、足音も小さく引っ込んだ。 「なあ」と、吐き出すように花道がつぶやく。「あのハンカチ……」 リョータは靴紐をきつく引き、間を置いた。「誰のでもない。忘れ物だろ」かすれた声。切って捨てるような響きなのに、耳の奥に残る滲みがあった。 「……本当に、そうかよ」花道は靴の泥を指でぬぐいながら、心と繋がらない言葉を口にした。指先の汚れに爪が食い込む。 リョータは小さく鼻を鳴らす。「お前さ、バカだよな。なんでも大事にする」 沈黙が降りた。遠く、グラウンドのスパイクの音が微かに混じる。湿った土の匂いが息に絡んだ。それぞれ、違う方を向いたまま、次の言葉を探す。 「なあリョータ、お前は——」花道の声が、不意に喉で詰まった。疑問も、慰めも、全部飲み込んでしまう。 リョータが顔をゆっくり上げる。「桜木、もう遅いぞ。行こうぜ」 その目の奥に、触れていいのか迷う揺らぎが見えた。春の空気が、二人の間を通り抜けていく。まだ言えない何かが、心の底で震え続けた。
校門を抜けると、風が弱くなる。リョータの肩越しに沈む夕日が、アスファルトの上でまばらな光を伸ばしていた。通学路には自転車のチェーンがきしむ音、小鳥の鳴き声。ふたりの靴音だけが道端にぽつぽつ落ちていく。 「なあ、桜木」リョータが、ふいに声を掠れさせた。「……もしさ、昔のこととか、誰にも言えないことあったら、お前だったらどうする?」 花道は足を止める。問いの意味をすぐに察せないまま、胸の奥がざわついた。リョータが立ち止まり、ランドセルの端をきつく握り締める指が見えた。 「俺か?」花道は一拍置き、口の中でことばを転がす。「……別に、バレても死にはしねえだろ」 リョータはかすかに笑う。けれど視線だけが遠いまま、夕焼けの色を反射している。「バカだな。……お前はいいよな」 ばたんと、郵便受けが閉まる音。花道が「なんか、あんのかよ」と言いかけて、飲み込む。風が枯れ草の匂いを運んで、何も言えずに並んだ。 手の中のポケット越し、あのハンカチの刺繍がひっかかる。言えないことなんて、きっと、誰にでも一つはある。思い出が引き戸の奥でじっと光る。互いの沈黙だけが、夜を迎えようとしていた。
夜はすっかり落ちて、帰り道の電灯が二人の影をねじ曲げていた。舗装された道の隅に、小さな草がところどころ顔を出し、地面近くの湿り気がジーパンの裾にひんやり絡みつく。遠くの住宅街から、夕飯の支度を知らせる匂いが風に混ざって流れてきた。 「リョータ、お前、なんか隠してんのか?」花道は唐突に問いかける。歩きながらポケットをぎゅっと握る。内側で、布越しに自分の鼓動が伝わっていくようだった。 リョータはすぐには返さなかった。自転車置き場の前で立ち止まる。サドルにうっすら埃。指先で意味もなくなぞる。「……桜木、俺さ——時々、自分がどこにもいないみたいになるんだ」 花道は何も言わず隣に立ち、リョータの横顔をよぎる冷たい街灯の光を、そのまま見つめた。石畳の隙間に小石が挟まり、スニーカーの先が少しだけ沈む。「だからさ、お前が何かもっててくれるなら、オレもちょっと楽になる気がする」 「……別に、何もわかんねえけど」花道は言って、視線を外す。「俺がいるから、とかじゃダメなんか?」 リョータは、ほんのすこし笑った気がした。「ダメじゃないよ」 ふいに、冷たい夜風が頬を切り、言葉はそれ以上続かなかった。リョータは自転車を押して歩き出し、花道は数歩遅れて追いかける。別れ際、どちらも振り向かなかった。その数秒を思い出しながら、花道はポケットの中で、あのハンカチを指で探った。薄い刺繍の手触りが、じわじわと夜に溶けていく。 遠ざかるリョータの背中。その小さな影に、なぜか胸が強く、痛むように軋んだ。
次の日、春子が昇降口の隅でしゃがみこんでいるのが見えた。朝の光はうっすら埃を浮かべて、彼女の髪に逆光の糸を差していた。花道はなぜか足を止める。心臓の裏側が冷たくくすぐられる。ポケットの中のハンカチが指に巻きつくようだ。 「お、おはようございます」声が少し高くなったのを自分でも感じる。春子は顔を上げ、瞳がまっすぐ花道を見た。「桜木くん、おはよう」 ほんの一瞬で息がうまく吸えなくなる。あの刺繍の、細い糸のことが思い出されて仕方なかった。けれど、言葉にはできない。ただ空気の粒を舌で確かめるだけ。春子がしゃがみ込んだまま、何かを両手で支えていた。小さな紙箱だった。 「どうしたの、それ」口に出すと、思っていたよりも声が乾いている。春子は箱の縁を差し出すみたいに持ち直す。「捨て猫、なの。さっき…見つけて」 箱の中で、まだ目も開ききらない子猫が震えていた。花道は言葉を失う。春子は困った顔で微笑む。「ね、どうしたら…いいかな」 どうしたら、なんて分からない。でも逃げたくなかった。「オレも、見てていい?」思わず出た言葉に、春子が「うん」とうなずいた。 二人の指が同時に、箱の端をさぐった。春子の薬指が花道の親指に、少しだけ触れた。その瞬間、胸のどこかを不意に針で穿たれたように、呼吸が止まる。ささやかな重み。彼女がこちらを見上げ、指先が離れそうで離れないまま、子猫の息遣いだけが二人のあいだに積もる。 「…あたたかいね」春子がつぶやいた。花道は何も言えないまま、小さな箱とその隣にある手のぬくもりを一生分くらい大切に感じていた。
猫の鳴き声が、箱の中でちいさく転がった。花道の指先が、春子の薬指からすこし遅れて離れる。熱が皮膚にうつったのかわからないが、空気の重みがごくわずか変わったような気がした。 「ほんとに、あったかいな」花道は思わずこぼす。春子は口元をきゅっと結び、視線を伏せた。「ね、すごく小さいのに。…桜木くん、やさしいんだね」 「ちがうよ」慌てて否定する自分の声が、まるで他人のものだった。けれど、なんでかそれ以上何も言えなくなる。春子は微笑んで、猫じゃらしの草を指で軽く箱のふちになぞりながら、「今日だけでも、だめかな。一緒に見てて」とぽつり言った。 「うん、オレがいる」そう口にした瞬間、身体の奥底に何かが静かに抜け落ちた。春子が、ささやくように小さくありがとうと言う。その声は、指に染みた優しい重さを思い出させる。 昇降口から吹く朝の風に、春子の髪がかすかに揺れた。その隙間から、ハンカチの刺繍と昨日のリョータの背中が遠く溶ける。「桜木くん…今日もがんばれるかも」と、はにかむ。 「…知らね」顔を逸らしながら、握りしめたポケットの中で、ハンカチがしわを深くする。それでも、今この場所に春子といるだけで、世界がほんのすこし変わっていく気がした。 鈴のような子猫の呼吸。その音を二人だけが聞いている朝。同じ空気を吸い込みながら、言葉の届かない距離が、ひとすじ消えたようだった。
帰り道、花道は体育館裏にリョータの姿を探していた。夕方の風にシャツが膨らみ、耳の後ろまで汗が薄くにじんでいる。バスケットボールが静かに指を抜け、コーンと乾いた音を空へ響かせていた。 「まだやってんのかよ」花道が声をかけると、リョータは横目で睨むふりをした後、少しだけ頬をほころばせる。「練習、抜くわけねーだろ。スポーツマンだからな」 言うそばから、リョータの額に汗が流れて、目の脇へ這い降りた。その一滴に、今朝の春子の柔らかな手の感触がなぜか蘇る。花道は靴のつま先でラインを踏みながら、胸の中がことんと音を立てるのを感じた。 「なあ…お前さ、それだけ一生懸命なのに…」うまく続かない。いつも強がりしか言えない自分を、急にもどかしく思う。「……大好き、だから」 リョータの動きが止まった。ボールがころころと転がり、草の上で静かになった。 「は?」リョータが眉を上げた。光が、彼の睫毛に細く落ちている。その表情は、驚きと照れと、どこか嬉しそうなものが綯い交ぜになっていた。花道は額の汗を手で拭い、自分の声が震えたのを誤魔化そうと視線をそらす。 「スポーツマンは、さ……一番好きなもんに、全力でぶつかるだろ?」 リョータは笛を吹くような小さなため息をつき、「お前、ほんとバカ」と呟いた。その語尾が、遠慮なく優しかった。遠くで誰かがコートを片付けている音が聞こえる。けれど二人のそばの空気だけが、ほんのりと温かく閉じていた。 花道のポケットで、あのハンカチがじわりと体温を吸う。何もかも未熟で、ぎこちない。でも今だけは、それを隠さなくていいのだと思えた。 ふとリョータが顔を上げる。「明日もここ、来るんだろ?」その声の底に、かすかな寂しさと期待が滲んでいた。花道は答えず、ただ大きくうなずいた。夕焼けの中でふたつの影が並ぶ。次へ踏み出すタイミングを、じっと測っているようだった。
夕方の光は、昨日よりやや柔らかい。体育館の床に伸びる影はふたり分。その間に、バスケットボールが静かに転がる。「……きょうも、来たな」リョータが小さく笑う。花道は無言でうなずく。指先で、いつものようにポケットの底を探ると、あのハンカチの縫い目がまだ微かにしこりを残していた。 言葉なんて、もうなくても通じる――そう信じたくて、けれど、伝えきれなかった思いが胸の裏側を擽る。ふいにリョータが切り出す。「さ、お前の大事なもん、そのまま持ってていいのか?」どこか間の抜けた調子で言いながら、けれど、目の奥は冗談じゃなかった。 「これか?」花道はハンカチを差し出す。角の花の刺繍が、光の中でさざなみを描く。「晴子さんのかと思ったけど……違った。オレには関係ないもの、だと思ってた」。言葉を落としながら、手のひらが汗ばむ。でも、ここで嘘だけは吐いてはいけない気がする。リョータは包み隠さず受け止めてくれる、そんな気がした。 「昔さ、姉ちゃんが縫ってくれたんだ。ずっと部屋に置きっぱなしだった」リョータは笑いかけてくる。「本当は、無くしてもよかったくらい。でも、たぶん――誰かがちゃんと持っててくれるだけで、俺もどこかに残れる気がしてさ」 リョータの声の下に、薄く震えるような覚悟が滲んだ。花道は一度だけ、ゆっくり息を吸う。「だったら、オレが持ってていいか?」手渡すでも、返すでもない。ただ、差し出された心の匂いごとまるごと抱きとめたくて。 「そっちのが安心だな」リョータが唇を少し噛む。夕陽が差し込み、体育館の埃がきらめく。その粒ひとつひとつが、これまでの沈黙や、言えなかった本音や、不器用な優しさを思い起こさせる。花道は、胸の奥底で固まっていた何かが、ひさしぶりに音を立てて崩れるのを感じた。 そのとき、扉の向こうから春子の声。「桜木くん」吸い込む空気が、ほんのり甘くなる。花道はリョータを振り返る。「……オレ、ちょっと行ってくる」リョータは「ああ」とだけ、短く頷いた。そこに残る静かな祈りのようなものに、花道も気づいている。 体育館の外、夕焼けの階段で春子が待っている。小さな箱の上に、子猫が眠っていた。「……ありがとう、昨日」春子が指で子猫の頭を撫でる。「桜木くんがいて、助かった」 花道は、うまく言葉が見つからないまま、その隣に腰かける。「こいつ、もう大丈夫そうだな」春子が微笑む。「ね、あのハンカチ、落としたやつ……わたしじゃないよ」 「知ってる」花道は、視線を桜色の空に投げる。「でも、なんか大事なもんになっちゃった」 春子が少しだけ、困ったように笑う。「人って、どこかで繋がってるんだね」その横顔は、どこかやわらかなかげりをまとっていた。花道は猫のぬくもりを指先に感じながら、自分という存在も誰かの手の中にいていいんだと思った。たとえば、リョータにとっての自分のように。 雲の切れ間から一筋の光が伸びて、二人と一匹をゆっくり包み込む。ふと、春子が「また明日ね」と小さくつぶやく。それだけで、目に見えない何かが確かに続いていくのだと分かった。 遠く体育館から、リョータのボールが跳ねる音が響く。そのたびに花道は、過去も秘密も、全部を丸ごと愛せる気がした。小さなハンカチの刺繍――人から人へ渡ったそれが、今は花道の手のひらで静かにしわを重ねている。この不完全なままの僕たちの時間が、ずっと、どこかで揺れている。春の終わり、埃の中、あの誰もいなかった体育館から、
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